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「なぜ数多くの若い胸が血に染まるのか」…李韓烈の仲間が残した悲しみの日記

登録:2020-01-13 03:36 修正:2022-01-10 07:29
李韓烈烈士の直筆と見られる、延世大学のサークル「漫画大好き」の日記帳に記された1987年3月21日付の文=李韓烈記念事業会提供//ハンギョレ新聞社

 「ヒョクのお母さんの涙を見て、私はついに耐えきれず泣き出してしまった。全何とかいう奴(当時の全斗煥大統領のこと)が見ても笑うことはできなかっただろう。そして決心した。お母さんの歌の歌詞のように、人が生きる世の中のために、私が何かをなさなければならないと」。

 1987年6月9日の反独裁デモに参加した延世大学生、故李韓烈(イ・ハンニョル)烈士が警察の打った催涙弾に当たって倒れた後、彼が生前に活動していた延世大学のサークル「漫画大好き」の日記帳(1980~1990年代の大学の学科部屋にあった学生たちの共同の日記帳)に記された文章だ。ヒョクとは「革命(ヒョンミョン)」の「革(ヒョク)」を表し、イ烈士のあだ名だ。12日、李韓烈記念事業会は「漫画大好きから、1987年から1996年までの日記帳が寄贈され、李韓烈記念館に搬入した。李韓烈の直筆とみられる文もある」と発表した。「漫画大好き」はサークル部屋で資料を保管してきたが、空間が不足してきたため、昨年11月に事業会に寄贈の意思を伝えた。同校の政治外交学科に在学中で「漫画大好き」会長のイム・ジェウさんは「イ烈士に関係する記録であり、事業会が資料をきちんと保管してくれるだろうということに皆の意見がまとまったため、スキャン本の提供を受けることを条件に寄贈した」と語った。

延世大学のサークル「漫画大好き」の1987年3月19日付の日記帳=李韓烈記念事業会提供//ハンギョレ新聞社

 日記帳にはイ烈士を失った仲間の悲しみが綴られていた。彼が警察の催涙弾に当たって倒れた後の1987年6月11日には「この地はなぜ数多くの若い胸を血に染めるのか、なぜ私たちは悲しみ慟哭する多くの母親を持たねばならないのか」という文が、同年6月16日には「悲しい。だが笑おう。喜びのその日のために。ヒョク兄さんは回復するだろう。必ず。ともに笑って話し合えるだろう」という文が記されている。

 筆跡からイ烈士本人が書いたと思われる文も見つかった。1987年3月21日付の「前方入所公聴会は86たちの参加の下に活発な意見の開陳があったが、87があまり参加しておらず、共感を形成するうえでは所期の目的を達成できなかったと考えられる」という書き込みだ。これが書かれた1年前の1986年までは、最前線部隊で1週間の軍事訓練を受けなければ教練の単位が取れない「前方入所教育」を拒否する闘争が続いていた。事業会の関係者は「前方入所拒否闘争について考えようとしていたが、参加率が低く、反省する内容とみられる」と語った。

 李韓烈記念館のイ・ギョンラン館長は12日にハンギョレの電話取材に対し「防虫防カビ処理、リスト化、資料化後に、必要な方たちが資料を見られるようにしたい。原本を展示するかどうかは資料整理後に判断する」と述べた。

キム・ミンジェ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/924097.html韓国語原文入力:2020-01-12 15:15
訳D.K

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