1941年春、17歳だったイ・チュンシクさん(94)は、日帝が労働力徴発のために作った「勤労報国隊」に動員され日本に連れて行かれた。新日本製鉄(現、新日鉄住金)釜石製鉄所で賃金も支払われずに劣悪な環境で働かされた。1944年、太平洋戦争中には徴兵までされた。神戸8875部隊で米軍捕虜監視員として働いた。解放後に故国に戻ったが、60年が過ぎた2005年になってようやくソウル中央地裁に訴訟を起こすことができた。
2008年1審敗訴、2009年2審敗訴。イさんは2012年5月に最高裁(大法院)で初めて勝った。そして再び6年を超える時間が流れた。30日午後、光州(クァンジュ)から上京してきたイさんは、再びソウル市瑞草洞(ソチョドン)の最高裁大法廷に立った。最高裁の最終判決までの道は、17歳の青年時期に日本に連れて行かれた時のように辛く長かった。
「喉がつまって言葉が出て来ません。来てくださって有難くて、申し訳なくて…」。30日午後1時50分、イム・ジェソン、キム・セウン弁護士(法務法人ヘマル)が押す車椅子に乗って、イさんは大法廷に到着した。車椅子に座ったイさんは涙を拭いた。一緒に訴訟を提起したヨ・ウンテク、シン・チョンス、キム・ギュスさんは、遺影写真の中でイさんの隣にいた。自身の裁判が、ヤン・スンテ最高裁長官時代に朴槿恵(パク・クネ)大統領府との裁判取引対象であったために遅れたということを最近知った。「司法壟断・裁判取引を公式謝罪せよ」「正しく判決せよ」。最高裁周辺でプラカードを持った人々がありがたかった。裁判開始から10分後、キム・ミョンス最高裁長官は「上告をすべて棄却する」という主文を読みあげた。隣に座っていたイム弁護士が、小さな声で「勝ちました」と話すと、イさんは静かに頷いた。
「もう少し早く判決が下されていたら、(裁判を)見てから旅立てたのに…」。2カ月前に亡くなった夫のキム・ギュスさんに代わって大法廷に来たチェ・ジョンホさん(85)は、キム弁護士とともに再び涙を流した。
「私を入れて4人なのに、一人で裁判を受けたことがとても辛くて涙も出て、気分が良くありません。その人々が気の毒で…。一緒に裁判を受けられなかったことが佗びしくてなりません」。それでもイさんは「ありがとう」と言い続けた。裁判を待つことが辛くなかったかという取材陣の質問に「朴槿恵大統領の時に(最高裁の)裁判が始まったのでどうにもできなかった。だけど、もうきれいさっぱり清算できた」と話した。
そんなイさんの心を、小さな真心が慰めた。最高裁を出たイさんに、チョン・ソンヒョンさん(17)が手紙を添えて「徴用被害を知らせるバッジ」を売って集めたカンパを手渡した。「この事件を初めて知って、じっとしていられずに自分でバッジを作って売りました。おじいさんに直接手渡したくて来ました」。イさんは「なんてかわいい。本当にありがとう」と話した。
裁判を傍聴するために日本から来た「日本製鉄元徴用工裁判を支援する会」の上田慶司氏は「韓国の最高裁で勝訴した後、判決はすぐに確定するだろうと考えていたが…日本では敗訴して韓国最高裁で勝訴した後、6年間も放置された。ろうそく革命で司法壟断を明らかにした韓国市民に感謝して、1人でも生きておられるうちに判決を聞くことができて幸いだった」と話した。