台風襲来の最中、沖縄を訪れた。いくつか所用があったのだが、そのうちの一つは佐喜眞美術館で「日本の戦争画」に関する講演をすることだった。強い雨風の中、熱心な聴衆が参席してくれたことはありがたかった。佐喜眞美術館には、以前このコラムでも触れた、ドイツの女性美術家ケーテ・コルヴィッツの作品が所蔵されている。また、丸木位里・俊(まるきいり・とし)夫妻の大作「沖縄戦の図」が常設展示されている。私は当日の講演で、日本戦争記録画(むしろ戦意昂揚画というべき)の代表作である藤田嗣治の「サイパン島同胞臣節をまっとうす」について解説した。この絵は、南太平洋サイパン島が米軍の攻撃によって陥落した時、当時その地に居住していた多くの日本人たちが「臣節」(天皇への忠誠)を貫いて自決したという愛国美談を大画面に描いたものである。この絵は戦争中、日本各地を巡回した「聖戦美術展」などで展示され、多くの日本国民が押し寄せた。
画面の右隅には、「バンザイクリフ」と呼ばれる断崖絶壁から海に落ちていく女性たちの姿も描かれている。彼女たちも「臣節」をまっとうするためすすんで自決した、ということにされている。しかし、この時サイパン島で命を失った者たちの中に、少なからぬ朝鮮人がいたことを想起するものは、あまりいない。日本の植民地であった南洋諸島には、労務動員された朝鮮人たちがいたし、いわゆる「慰安婦」もいた。「日本人」という「国民」の美談が捏造されるとき、こういう周辺化された存在は常に切り捨てられる。
沖縄地上戦においては、多くの現地人が命を奪われた。犠牲者の中には日本軍によって殺害されたり、あるいは「自決」を強制された例も少なくない。敗勢に追い込まれた日本軍は、彼らにとって聞き取りにくい方言を話す沖縄の現地人にスパイの疑いをかけた。また、狭い防空壕は軍人優先で地元住民は出口近くか壕の外に追いやられた。赤ん坊をかかえた母親は、泣き声で敵に発見されてはならないという理由でわが子を殺した(そうせざるを得なかった)例もある。生き地獄であった。同じ戦争、同じ「自決」を描きながら丸木夫妻の「沖縄戦の図」と藤田の作品とはその方向性が正反対である。一方は沖縄の米軍基地に隣接する私立佐喜眞美術館にあり、一方は東京の中心、皇居に隣接する国立近代美術館にある。
7月2日、名護市博物館に足を延ばした。そこに画家・宮城与徳(みやぎよとく)の作品が所蔵されている。数年前、そのうち1点のみが佐喜眞美術館に偶然展示されているのを見たことがある。漁港に小さな船が停泊している風景画である。同行していた妻が、画家の名が宮城与徳であることも知らないまま、「なんて、透明な…」と息をのんで、すっかりその作品に魅せられた。それから数年、ようやく念願がかない、今回佐喜眞館長の尽力と名護市博物館の好意によって、休館日にもかかわらずそれらの作品を特別に見せてもらったのである。
宮城与徳のことを知る人は、地元沖縄を除いては、日本にも多くない。まして韓国ではほとんど知られていないであろう。彼は1903年に現・名護市に生まれ、師範学校に入学したが肺結核のため退学、1919年、16歳の時に先に米国に出稼ぎ渡航していた父に呼び寄せられて渡米した。アメリカでは美術学校に通いつつ、1924年の「排日移民法」に代表される米国での移民労働者の困難な境遇への怒りから社会問題に目ざめ、1931年アメリカ共産党日本人部に入党した。1933年10月、命を受けて密かに日本に帰り、「ゾルゲ機関」の一員として活動した。「ゾルゲ機関」とは、リヒャルト・ゾルゲをリーダーとする諜報組織である。ゾルゲは1895年、ロシアのバクーに生まれた。ドイツ人の父は石油精製技師、母はロシア人である。ゾルゲは鉄の意志をもつ秘密活動家であっただけでなく、中国問題の専門家であり、一流のジャーナリストでもあった。
ゾルゲ機関の任務は日本の対ソ戦策に関する情報収集であった。ナチスドイツの脅威に直面するソ連としては、極東の日本が北進してソ連を攻撃するのか、あるいは南進してアジア・太平洋に向かうのかを探ることは死活的に重要であった。このゾルゲの活動に同志として協力したのが尾崎秀実(おざきほつみ)である。尾崎は朝日新聞記者で中国問題専門家であり、アグネス・スメドレーや魯迅とも親交のあった知識人である。彼は当時の近衛秀麿内閣のブレーンであったため、重要な情報に接しうる立場にあった。ゾルゲ機関の活動は1933年から8年余り続き、その間に貴重な情報をモスクワにもたらした。1941年7月2日の御前会議(天皇が出席する最高決定会議)での決定を踏まえた「日本北進せず」の情報によってソ連は極東の戦力を対独戦線に投入することが可能となったのである。
1941年10月、ゾルゲ機関の主要メンバーは一斉に検挙された。諜報機関員として17名、非機関員として18人が検挙され、裁判の結果、ゾルゲと尾崎に死刑、クロアチア人記者ヴーケリッチ、ドイツ人無線技師クラウゼンには終身刑が宣告された(ヴーケリッチはのちに獄死)。宮城与徳は取り調べ中に手錠のまま警察署の2回から飛び降り自殺を図ったが死にきれず、結核の病苦も重なって、1943年8月2日、公判中に獄死した。40歳であった。
尾崎とゾルゲは、終戦間近の1944年11月7日、東京拘置所において相次いで処刑された。尾崎の獄中書簡集「愛情は降る星のごとく」は戦後ベストセラーとなったが、その中には妻や娘に寄せる思いとともに、同志ゾルゲへの尊敬の念、体が弱い宮城への思いやりなどが綴られている。(ゾルゲと尾崎については拙著「過ぎ去らない人々」参照)
戦後長い間、故郷で「国賊」として禁忌視されてきた宮城だが、1990年代から徐々に再評価の動きが現れ、名護市では2003年に有志によって生誕100年記念行事も行われた。私が今回、名護市博物館で入手した記念誌「君たちの時代」にその経緯が記されている。同誌に収められた歴史研究者・比屋根照夫琉球大学教授の講演に、次のような記述がある。
「こうした世界史に関わっていくような事件になぜこの名護やんばるという小さな地域の出身者たちが関わったのか。これは大きな20世紀のドラマといわねばなりません。そこにいわば20世紀の革命と戦争の時代に理想を掲げて(中略)人々の志が挫折していった時代の光と影が映し出されている。」
ゾルゲ、尾崎、宮城、その他、この活動に参加した人々の背景や思いは多様である。宮城の場合は、「非土の悲哀」がその根底にあると比屋根教授は言う。「非土」とは「土着でない」という意味の造語だが「ディアスポラ」という意味でもあろう。この人々の活動は、「当時の国際関係の中でぎりぎりの反戦平和活動だったと評価された」(比屋根)。
博物館で素朴な民具などの展示も見て、近くの広場にある宮城の記念碑も見てから、帰途に就いた。台風到来のため風雨が強いが、時折、雲の切れ間から南国の陽が射す。荒れる海は、光を跳ね返して凄まじく、美しい。16歳でこの海を超えて異国に渡り、画家を志した青年。みずから反戦平和活動に身を投じ、苦しみ抜いて獄死した青年。その生涯は過去のものだろうか。沖縄の米軍基地に反対する運動は驚異的なまでの粘り強さで続いている。ヤマト(日本本土)の人間の大多数はそのことに無関心である。
[追記]
前回の本欄コラム「쓰라린 진실- 영화 ‘박열’을 보고」について、去る6月1日、朴烈先生記念会から本紙担当部署に連絡があったと聞いた。その主旨は、当該コラムの一部において筆者が朴烈の獄中転向を確定した事実のように記しているが、これについては現在も多様な議論が進行中であり、断定すべきではないというものであった。筆者として、この指摘について簡潔に言及しておきたい。
筆者は文中に明記したように、コラムの当該部分を信頼すべき歴史学者・山田昭次教授の見解に依拠して記述した。記念会の指摘を受けるまで、筆者として近年における議論の展開については詳しく承知していなかったので、この点の不勉強を認め指摘を有難く受け止めたい。ただ、議論はまだ進行中であり、朴烈の「転向」が日帝当局によって捏造された虚偽情報だという論証も十分ではないようだ。したがって現段階では山田教授などによる従来の定説が完全に否定されたともいえない。このような点を考慮すると、前回コラムで筆者が朴烈の転向を「事実」と書いた部分は、「転向が報じられた」と書いたほうがより正確であったと考える。今後の研究の進展を見守りたい。
ただし、筆者の意図は、「底なし沼」のような天皇制の機能に注意を喚起すること、それが現在も生きていることに警鐘を鳴らすことにあった。1930代後半以降になると、現在では「まさかこの人が」と思うような人たちまでが転向を表明し親日に転落した苦い歴史がある。そのような現象がなぜ生じたのか。それを人間性の深淵にまで届く視線で見つめて考察すべきである。かりに「苦い真実」であったとしてもそれを直視して教訓とすべきであるというのが筆者の論旨である。重ねて言うと、映画「朴烈」はよくできた作品だったが、この「転向」問題をまったく示唆しないまま終わったことは残念だった。
韓国語原文入力:2018-07-19 18:02