他人の不幸のおかげで肥えた暮らしを享受することになり傲慢になれば、その不幸にほおかむりをしていたくなる。日本が「慰安婦」問題の解決にほおかむりしているように、私たちも日本に要求する真実と正義の鏡としてのベトナム民間人虐殺を凝視しようとしていないのはそのためだ。政府レベルの謝罪は、2001年金大中(キム・デジュン)大統領の「不幸な戦争に参加して、不本意にベトナム人に苦痛を与えたことについて申し訳なく考える」という発言に留まっている。
週刊ハンギョレ21の最近号(1196号)は「1968クアンナム大虐殺」特集を載せた。表紙の写真を見ただけで背筋が寒くなる。半世紀前、韓国軍の銃と手榴弾で母親と幼い妹をはじめ、家族19人を一度に失った69歳のレタヌンイ氏だ。ハンギョレ21は、韓ベ平和財団との共同企画で、三回にわたり「1968クアンナム!クアンナム!」記事を連載する。今回の号には「1968クアンナム大虐殺地図」とともに、犠牲者の追悼を望む韓国人のための「クアンナム・巡礼の道1コース」を紹介している。
1999年にハンギョレ21のベトナム通信員として活動し、「ごめんなさいベトナム」シリーズを連載したク・スジョン博士(現在、韓ベ平和財団常任理事)によれば、韓国軍が犯したベトナム民間人虐殺は80件余りに達し、クアンナム省だけで4千人余り、全体では5省で9千人余りが犠牲になったという。コ・ギョンテ・ハンギョレ記者は、「記録したい熱望で始めた」と序文で明らかにした本『1968年2月12日』(ベトナム フォンニィ・フォンニャット虐殺、そして世界)で「韓国軍海兵隊員が若い女性を裸にして乳房をえぐり取り殺したといううわさ」に関し記録した後、このように書いた。
「1948年済州(チェジュ)4・3事件から20年が経過していた。1980年5月の光州(クァンジュ)抗争の12年前だった。1968年2月12日のベトナムは、済州と光州の中間に位置していた。その日の午後2時頃、フォンニィ・フォンニャット村では済州4・3事件の時間が再現された。5月の光州の時間が流れた。19歳の娘、ウンウイェンティタンは裸で畑に倒れてうめいていた。両方の胸はメッタ切りにされ血が流れていた。左腕も同じだった。20年前に済州に入ってきた討伐隊員のように、12年後に光州に投入された空輸部隊員のように、村に入ってきた韓国軍海兵隊員は暴悪だった。過去の討伐隊員と、未来の空輸部隊員と、その日の海兵隊員は顔付きも似ていたし同じ言語を使った…」
韓国は、1964年から1973年まで最大で5万人の兵力をベトナムの戦場に派遣した。米国以外の派兵国家であるオーストラリア、ニュージーランド、スペイン、タイ、フィリピン、台湾の全兵力の3倍に達した韓国軍は、戦争期間を通じて兵力32万人余りがベトナムの地を踏んだ。朝鮮半島とベトナムは、中国の長い影響の下で漢字文化圏になったという点、その他にも似ている点が多い。19世紀の西勢東占で共に植民地になり、日帝の崩壊で期待した民族解放は、それぞれ38度線と17度線の分断につながった。強大国間の冷戦の担保になって、同族どうしが戦争をしたことまで似ていた。二つの戦争には共に米国が介入したが、朝鮮戦争が「勝者なき戦争」で分断状態が持続したのに対し、ベトナムは統一されたという差がある。この差はどこから始まったのだろうか?ホーチミンという傑出した指導者、ベトナムの歴史に綿々と流れる抗争精神と理念の違いを緩くした村の共同体意識を挙げることはできるが、ベトナムにある密林が朝鮮半島にはない代わりに、ベトナムにはない苛酷な冬が朝鮮半島にはあるという自然条件の差が最も重要だったのかも知れない。
『百年の急進』で韓国に紹介された中国の温鐵軍氏は、世界を植民宗主国であるヨーロッパ、植民化された大陸のアメリカとオセアニアとアフリカの半分、そして原住民大陸であるアジアの3つに分ける。(「緑色評論」2018年1・2月号)アジアの同じ原住民の間柄であり、怨恨関係のないベトナムの地を韓国軍はなぜ軍靴で踏んだのだろうか?今は70歳を越えているが、半世紀前には紅顔の若者たちは、釜山港を出航した輸送船が東・南シナ海をすぎる時、真っ黒な夜の海を眺めて孤独と恐怖に震えただろう。彼らのうち5千人余りは生きては帰って来られず、1万人余りは負傷し、枯れ葉剤の後遺症で苦痛を訴える人は2万人を超える。「醜悪な戦争」だった。
ケネディ大統領が国防長官に抜てきしたロバート・マクナマラは、ベトナム軍事介入を推進、拡大し、戦争を正当化することに全力を尽くした人物だ。彼は1995年に出した回顧録『ベトナム戦争の悲劇と教訓』でこのように書いた。「私たちは誤ったし、残酷に間違えた。私たちは次世代に、なぜこうした過ちを犯したかを説明する宿題を抱えている」。韓国ではまだこのような発言は見当たらない。民間人虐殺があったということさえ、公式的には認めていない。ベトナム戦争を「自由世界守護のための戦争」として残さなければならないためだ。朴槿恵(パク・クネ)をろうそく市民の力で監獄に送った今日も、ベトナム戦争に関する限り、朴正煕(パク・チョンヒ)精神は依然として強く生きている。
実際、ベトナム参戦の最高の受恵者は朴正煕であった。1975年4月30日、ベトナムが統一された日の3週間前、韓国では人民革命党再建委事件で8人が処刑された。維新体制は強固で、緊急措置違反者は拷問を受け投獄された。ベトナム戦争が真っ最中だった68年1月21日、北朝鮮は朴正煕を除去する目的でキム・シンジョら特殊部隊員を送った。北ベトナムが68年1月のテト(旧正月)攻勢に合わせて戦線を拡張する目的であったかは定かでないが、「1・21事態」はむしろ朴正煕体制を一層強力にする契機になった。住民登録法施行、予備軍創設、高校と大学での教練実施で国民統制、学園兵営化が着々と実現された。
「戦争は愛の敵です!」 2000年からクアンナム省など民間人虐殺地域を中心に医療支援活動を繰り広げた「ベトナム平和医療連帯」のソン・ピルギョン院長(歯科医)は『なぜホーチミンなのか』で、ベトナムの国民詩人タインタオの話を紹介している。「当時、ほとんどの男たちは高等学校を卒業する年齢の17~18歳になれば入隊したが、生存率は10%にもならず、異性に会うこともできないままに散華した」という。しかし、朴正煕にはすべての戦争(中日戦争、第2次大戦、朝鮮戦争)が彼の欲望実現のためのチャンスであった。ベトナム戦争も同じだった。第2次大戦で崩壊した日本が、朝鮮戦争特需で再建の機会を得たように、ベトナム戦争特需とその後の中東建設景気で、朴正煕は「豊かな暮らしをしてみよう!」というスローガンの中に財物を盛り込むことができた。韓国と北朝鮮の経済と生活の水準は、70年代を過ぎて逆転し、朴正煕は終身大統領になるつもりだった。
他人の不幸のおかげで肥えた暮らしを享受することになり傲慢になれば、その不幸にほおかむりをしていたくなる。日本が「慰安婦」問題の解決にほおかむりしているように、私たちも日本に要求する真実と正義の鏡としてのベトナム民間人虐殺を凝視しようとしていないのはそのためだ。政府レベルの謝罪は、2001年金大中大統領の「不幸な戦争に参加して、不本意にベトナム人に苦痛を与えたことについて申し訳なく考える」という発言に留まっている。1985年、終戦40周年をむかえてドイツのワイツゼッカー大統領はこう言った。「もう新しい世代が政治的責任を負えるまでに成長しました。私たちの若者が、40年前に起きたことに責任があるわけではありません。しかし、それによって起きることに対しては彼らにも責任があります…私たちは記憶を大事に保管することが、なぜそれほど重要かを若者たちが理解できるように助けなければなりません」
苦痛の深さに応じて他者の苦痛に共感できるのか、昨年9月、1300回水曜集会でキム・ボクトン、キル・ウォンオクの二人のハルモニ(おばあさん)は「…韓国の軍人により私たちのような被害にあったベトナムの女性たちに、韓国国民として心より謝罪します」というメッセージを伝えた。韓ベ平和財団(kovietpeace.org)は、大統領府の前で韓国政府の謝罪を求める1人デモとともに「万万万キャンペーン」を行っている。“万”日の戦争(ベトナム戦争)、“万”人の犠牲、“万”人の連帯…。4月にはベトナム戦争民間人虐殺に関する「市民平和法廷」も開く計画だ。ぜひ多くの市民が“万”人の隊列に参加されんことを…。
ホン・セファ・ジャンバルジャン銀行長、“素朴な自由人”代表