『歴史の破片-ドナルド・グレッグ回顧録』
ドナルド・グレッグ著、チャ・ミレ訳
創作と批評社発行・2万5000ウォン
5月19日、ソウルで開かれた『歴史の破片』の韓国語版出版関連記者懇談会で、著者のドナルド・グレッグ元駐韓米国大使(1989~93年 88) は「北朝鮮を悪魔化すべきでない」という言葉を繰り返し強調した。
グレッグ元大使は敵対国に対する“悪魔化戦略”により米国が重大な打撃を受けた代表的な安保・軍事的失敗事例として、北朝鮮とベトナム、イラク、ロシアなどを挙論した。韓国支局長勤務(1973~75年)を含めて 1950年代初めから31年間にわたり中央情報局(CIA)に携わったグレッグ元大使は、「私たちが嫌いな、あるいは理解できない外国の指導者や集団を、無条件に悪魔化しようとする傾向」が無知と偏見を生み、それが悪宣伝と煽動政治の増幅過程を経て敵だけでなく米国自身をも絶えず苦境に追いこんでいると話す。
グレッグ大使は、幼時の回想から最近の北朝鮮訪問に至るまで重要な証言を含むこの興味津津な回顧録の最終章のタイトルを「悪魔化が招く危険」とつけた。 その後に続く後書きでも、悪魔化をやめて対話をしなさいと促す。 誰と? ほかでもない北朝鮮だ。 「朝鮮半島の分断は終わらせられるし、また必ず終わらせなければならない悲劇である。 それは互いに続いている悪魔化が対話に変わり和解が成り立つ時にのみ、実現され得る」
90を目前に控えた“老人”の懇切な話には、真正性が感じられる。
彼が列挙した米国の過誤に対する記憶、その“悪魔化”の破片をきちんと知っている人がどのくらいいるだろうか。
グレッグ元大使が駆け出しの頃に経験したCIA幹部たちは、当時敵対国ソ連の情報員の知的能力を見下していただけでなく、CIA内部にソ連のスパイが大挙侵透しているという誤った判断と被害妄想に捕らわれていた。 グレッグ元大使はそのような“ソ連悪魔化”のために防諜概念自体に対する信頼が崩れて、多くの米国諜報作戦が失敗し多くの要員が命を失ったとして、二重スパイ、オルドリッチ・エイムズの反逆事件の被害が増大したのもそのためだと指摘した。
私たちにとってさらに敏感な問題は、ベトナムとその指導者ホー・チ・ミンに対する悪魔化が招いた結果だ。第2次大戦後ホー・チ・ミンは何度も米国に手を差し伸べたし、ハリー・トルーマン大統領に手紙(1972年になってようやく機密解除)まで送った。 米国は統一独立国家を追い求めるこのベトナム民族主義者の要請を拒否し、毛沢東の中国と一味である共産主義の悪魔に仕立て上げた。 それは米国とフランスの間の取り引きの延長だった。 当時フランスはインドシナの植民地再建に手を焼いていたし、すでに冷戦に向かっていた米国は、親米反ソ的な西ヨーロッパ陣営を強化するためにヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC、ヨーロッパ連合の母胎)結成工作に介入していた。 米国はフランスがヨーロッパ石炭鉄鋼共同体に加入する対価として、フランスのベトナム殖民再建を支援した。
しかしフランスはディエンビエンフーの戦闘で敗れた。フランスの支配は終わったがベトナムは分断され、米国がフランスに代わって本格介入する。 グレッグ元大使によれば、米国はその時ホー・チ・ミンの後ろに中国がいるという誤った判断を下した。 グレッグ元大使が嫌悪する米空軍大将カーチス・ルメイは当時、北ベトナムを爆撃して背後勢力である中国をさらに深く戦争に引き入れた後、中国の核兵器製造施設を爆撃しようと主張した。 彼は北爆により「24時間で北ベトナムを石器時代に戻してしまう」と壮語した。 ベトナム軍事援助司令部(MACV)のポール・ハキンス司令官は「私たちは6カ月後には軍事的勝利をおさめてここを出て行くだろう」と大口をたたいた。 しかし米国は50万の米軍を派兵しながらも敗れた。
グレッグ元大使は、米国のいわゆる“朝鮮半島問題専門家”なる人々の多くが、現在ルメイやハキンスのような視点で北朝鮮を悪魔化するのに加担していると批判する。 彼によれば、朝鮮半島の戦争直前まで行った1994年の「第1次北朝鮮核危機」もそういう人々が触発させたものだ。 “1987年体制”の成立でスタートした盧泰愚(ノ・テウ)政権の「北方政策」のお陰で、韓国はロシアなど社会主義圏と急速に関係正常化を成し遂げ、南北関係もほぐれて1991年には南側が核兵器撤収を宣言した。和解・相互不可侵・交流協力を明記した「南北基本合意書」まで発表し、南北首脳会談が8回も開かれた。 グレッグ元大使は当時のロバート・リズカシー在韓米軍司令官とともに米国防省を説得して韓米チームスピリット訓練(1992年度の訓練)を取り消すと発表したことも、起爆剤の役割を果たしたと書いた。
この和解ムードを一挙に覆してしまったのが、1992年秋の当時のディック・チェイニー米国防長官のチームスピリット訓練1993年再開宣言であった。 チェイニーは国務省やグレッグ大使と一言の相談もしなかった。 当時は米国大統領選挙戦が終盤に至った状況で、チェイニーは北を悪魔にして南北緊張を造成することにより政治的利得を得ようと考えた。「私はそれこそが、私が大使として奉職した期間にアメリカ合衆国が決定した唯一かつ最悪の失策だったと今でも考える。 それはディック・チェイニーが後に副大統領になってから南北和解に向けたいかなる動きも徹底的に無力化させようとして取ったいくつかの破壊的な措置の中の一つ目に過ぎなかった」
北はチームスピリット再開を非難して準戦時体制を宣言した。 1993年には核拡散禁止条約(NPT)を脱退して核開発へと走り始めた。 それを中断させることのできたクリントン政府のジュネーブ朝米核合意は、すぐその年の共和党の中間選挙勝利とその後の対北重油提供合意の破棄により再び破産した。2000年の6・15南北首脳会談とその後の趙明禄(チョ・ミョンロク)北朝鮮次帥がワシントンを訪ねクリントン大統領を北に招待し、マデレーン・オルブライト当時米国務長官が平壌(ピョンヤン)を訪問することで現在の米キューバ、米イランの和解を先取りしていた北朝鮮と米国の接近も、チェイニーが副大統領として米国の安保軍事政策を牛耳ったジョージ・ブッシュ政権の登場によりまたも破産した。
そう、問題は米国だ。『歴史の破片』によれば、南北対決の悲劇の裏には常に米国が存在する。 これは反米主義者や“従北”主義者の話ではなく、米国と韓国を本当に愛する元駐韓米国大使の話だ。 チェイニーらタカ派はサダム・フセインのイラクも偽りの口実で悪魔化しながら武力で倒したが、米国はそこでも失敗した。 グレッグは、“悪魔化”がアメリカの狙った敵対国を苦境に陥れただけでなく、米国自身の失敗としても帰結したとして「悪魔化をやめよ」と叫ぶ。 彼の叫びは、CIAのアジア情勢分析官として長く務め、晩年に米国の軍事帝国主義の批判者に転じたチャルマーズ・ジョンソンの歩みを想起させる。
グレッグ元大使は天安(チョナン)号沈没が北朝鮮の仕業である可能性はないという自己の公開的主張を再度展開しはしなかったが、その考えを依然堅持していることを明らかにした。 去年の訪北まで合わせて計6回の平壌訪問経験を持つグレッグが提示する代案的解決法は、対話と建設的な関与だ。韓国社会の一部では、この海千山千すべてを経てきた老人の勧告すら「親北・従北」に仕立て上げている。