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[寄稿]光復軍やベトナム戦の韓国軍でさえ作戦指揮権を持っていた

登録:2014-11-22 00:20 修正:2014-11-22 18:49
韓国と中国の要人が1940年9月、中国重慶の嘉陵賓館で大韓民国臨時政府光復軍総司令部成立典礼式を終えた後の記念写真。この行事は中国国民党政府要人および各社会団体幹部と各国大使・公使・外交使節および新聞記者など来賓200人余りが参加して行われた。資料写真//ハンギョレ新聞

 朴槿惠(パク・クネ)政権は2015年までに戦時作戦統制権を韓国に取り戻すという公約まで破棄した。 保守マスコミでに作戦指揮権を他国にまかせても軍事主権のき損ではないとする“ゴミクズ”のような文があふれている。 『ハンギョレ』も特集や対談、外部寄稿、社説などを通してこの問題を多方向から深く扱ったが、作戦指揮権の歴史的な側面を少し加えてみようと思う。

 良く知られている通り、李承晩)イ・スンマン)は朝鮮戦争初期の1950年7月15日、国連軍司令官マッカーサーに韓国国民と政府は「現在の敵対行為が続く間」韓国軍が「貴下の全体的指揮を受けることになったことを“光栄”と考える」という手紙を送った。1975年に国連軍司令部が解体された時、在韓米第8軍司令官として最後の国連軍司令官を兼ねたリチャード・G・スティルウェルは、韓国軍の作戦指揮権が米国に渡されたことを「地球上で最も驚異的な主権譲渡」と評価した。

 現行憲法の前文は、大韓民国が臨時政府の法統を継承したと規定している。戦争記念事業会が「軍の正統性」という副題をつけて出した『現代史の中の国軍』という本を見ても、あたかも韓国軍が光復軍の正統性を継承したかのようになっている。実に厚かましい話だ。韓国軍が日本軍と満州軍出身者により支配されてきた歴史を直視せず、現在の姿だけをもって光復軍を継承したと言えるだろうか?

1940年光復軍が創建された時
武器も食事も中国政府が用意してくれた
中国側が作戦指揮権を行使しようとすると臨時政府は騒然とし
3年に及ぶ粘り強い交渉の末の1944年、ついに中国が譲歩した

 朴槿惠政権と臨時政府の最も大きな違いは、軍事主権に対する態度に端的にあらわれる。 1940年、光復軍が創建された時、武器も中国政府があてがい、訓練も中国政府が行い、食事も中国政府が与えてくれた。 光復軍が活動できる地域も当然、中国国内だった。 中国政府の立場からすれば、光復軍に対して作戦指揮権を行使しようとしたのは当然のことだった。 もし、韓国に民主政権ができて、例えばビルマの民主化運動を後押しするために民主解放軍を訓練させるにしても、彼らが韓国の領土内で独自の作戦指揮権を行使すると言えば、びっくりして飛び上がるのと同じことだ。

 中国政府はいわゆる「韓国光復軍 9個の行動準縄(規則)」を制定し、韓国軍は中国軍事委員会の統轄・指揮を受け、臨時政府ではなく中国最高統帥部の唯一の軍令を受けなければならないと通知してきた。準縄の“縄”が縛る縄を意味することから分かるように、中国は光復軍が韓国に進攻作戦を展開するならともかく、中国内では中国軍事委員会の下できちんと縛っておこうとした。中国国民党が積極支援した朝鮮義勇隊がある日突然、中国共産党支配地域に消えてしまったため、中国も作戦指揮権問題に敏感に反応したのだ。

 なんとも悔しい話しだが金も力もなかった臨時政府としては選択の余地がほとんどなかった。 臨時政府の閣僚会議は「来客である客軍は駐在国の主権を侵害できない」という理由で「忍痛接受」、すなわち痛みをこらえてこれを受け入れた。

 しかし内部の反発は強かった。 臨時政府軍務部長チョ・ソンファンは、中国のわずかばかりの援助のために「光復軍が中国に隷属するなら、光復軍はむしろ我々の独立運動を抹殺する機関に過ぎない」と恥じたし、軍務部次長のユン・ギソプは、“9個の準縄”を受け入れれば「光復軍は中国の奴隷軍隊」になると断言した。 この問題を議論する臨時議政院は修羅場になった。 ムン・イルミン議員は「この場で死のうとも決して亡国の徒にはならない」と激昂し、チョ・ワング議員は“飢え死にする覚悟”で9個の準縄の廃棄を宣言することを要求した。

 議会の通過もないまま政府はなぜ9個の準縄を受けいれたのか(1950年の作戦指揮権委譲も、2015年の無期限延期も、議会の承認を経ていない!)と詰問する議員に対し、外務部長のチョ・ソアンは9個の準縄は条約ではなく臨時的な軍事協定に過ぎないと弁解した。このような弁解をしたチョ・ソアンも、光復軍が準縄にしばられることにより、日本軍と戦うどころか中国軍のために必要もない情報でも提供し、机に座って政訓事務などをしているとして嘆いた。

 臨時政府の3年に及ぶ粘り強い交渉の末、中国政府は1944年9月ついに9個の準縄を廃棄する決定を下した。 臨時政府には人がいるだけで、他人の土地で他人の金で軍隊を設けなければならない困窮した境遇だったが、大韓民国の国軍が外国の作戦指揮を受けなければならないということについては恥辱と考えた。 一方、臨時政府の法統を継承したとする大韓民国の現政権は、客軍である米軍に作戦指揮権を返すと言われ飛び上がって驚き、作戦指揮権を受け取らないために米国に途方もない代価を払った。

 このように作戦指揮権を持てなかった軍隊が他にあっただろうか? 日のもとに新しきものなしという言葉がある。 韓国軍以前に、満州軍も作戦指揮権を持とうとする意欲を示さなかった。中国の学者はそのような満州軍をためらいなく「偽満軍」、すなわち傀儡満州軍と呼ぶ。

 韓国軍に米軍があるように、満州軍には関東軍があった。 外形上は韓米連合軍司令部という枠組みを持っている韓国軍と米軍の関係とは異なり、関東軍はこれという法的根拠もなく“内面指導”を通じて満州軍のみならず満州国の国政全般を左右した。 満州軍はソ連を相手にする国防は関東軍に任せ、共産軍討伐という国内治安だけを担当した。朝鮮戦争期間にも、その直後に軍で頭角を現わしたペク・ソンヨプ、チョン・イルグォン、カン・ムンボンらは満州軍出身だった。これは自分たちが世界最高と自負していた筋金入りの日本軍出身者より、体質的に主人に仕えることに慣れていた満州軍出身者が、米軍優位の支配体制にずっとうまく適応したことと無縁ではないだろう。

 米国は長期にわたり韓国に作戦指揮権を返そうとはしなかった。その理由は第一に、米軍は韓国軍の将軍、特に一部日本軍出身の将軍の指揮能力を信じなかった。 一例として米第8軍司令官ベンフリートは、3軍団長ユ・ジェフンが中国軍に包囲されると怖じ気づいて部下と装備を捨てて逃げて来ると、それでも軍人かと詰問し彼を職務解任したことがあるし、韓国軍指揮官には主要部隊の指揮を任せなかった。 第二に、米国は李承晩や朴正煕(パク・チョンヒ)のような独裁者が国内の難しい政治状況を対北朝鮮軍事挑発を通じて免れようとする火遊びをするのではないかと憂慮した。

 事実、李承晩は米国のこうした憂慮を積極的に活用し、米軍を韓国に縛りつけていたと言っても過言ではない。李承晩は北進統一を主張し、停戦協定に最後まで署名しなかったし、反共捕虜の釈放といった強硬手段も辞さなかった。李承晩自ら米軍が撤収するなら何をしでかすか知れない“大馬鹿”という印象を与えたことにより、彼の狂気(イ・スンマンの立場ではよく計算された狂気)を予防するため、米軍は作戦指揮権を韓国に返さなかった。 李承晩が停戦協定に署名せず作戦指揮権を移管させなかったのは、李承晩個人にとっては政権維持に有利だったかも知れないが、南北関係と韓米関係には大きな負担として作用した。 特に南北関係で北側は「大人たちの話に子供は割り込むな」という言い方で対米直接交渉を追求した。

18日午前、慶尚北道浦項近海で海兵隊上陸軍が空中からの突撃訓練のために作戦遂行中の独島艦の飛行甲板で機動ヘリコプターに搭乗している。 海軍・海兵隊約1900人と韓国型上陸装甲車(KAAV)20台、独島艦および上陸艦など水中・水上艦艇約20隻などが参加した。

 1968年初め、北側特殊部隊の大統領府奇襲とプエブロ号事件で朝鮮半島の緊張が極度に高まった時、ジョンソン米大統領の特使として韓国を訪問したバンスは朴正煕が泥酔状態で何回か北に対する攻撃命令を下したが、将軍たちは朴正煕が(酒の席で)下した指示について翌朝言及しなければ、前夜に彼が下した命令は忘れていると備忘録に書いた。 米大統領ジョンソンは、朴正煕が「過度に好戦的(too belligerent)」であり、「飲みすぎととんでもない行動(heavy drinking and erratic behavior)」をしばしばするという点を強く憂慮した。

朴正煕は在任中、執拗に作戦指揮権移管のために努力した
しかし米国は彼を信じることができなかった
独裁者が困難な政治状況を対北朝鮮軍事挑発で免れるため
火遊びをするのではないかと憂慮した
実際、朴正煕は泥酔状態で数回、対北朝鮮攻撃命令を下した

 こんな朴正煕に米国は作戦指揮権を返そうとはしなかった。それでも朴正煕は在任期間中、執拗に作戦指揮権移管のために努力した。光州(クァンジュ)虐殺に動員された軍隊の作戦統制権を巡って作戦指揮権問題に火がつき、『ハンギョレ』を含めすべてのマスコミが、盧泰愚(ノ・テウ)政権になって相当部分進展したと書いているが、これは事実ではない。 作戦指揮権を取り戻さなければならないという議論は、李承晩を追放した4月革命以後活発に展開されたが、5・16軍事反乱(朴正煕の軍事クーデター)で米国の作戦指揮権が傷を受け、その責任でマグルーダー米第8軍司令官とグリーン駐韓米国代理大使が更迭され、しばらく水面下に沈んだ。

 韓国軍の作戦指揮権に対する議論に再び火がついたのは、韓国軍がベトナムに派兵される時であった。米国は韓国内でも米軍の作戦指揮を受けている韓国軍が、ベトナムで米軍の作戦指揮を受けることを当然と考えた。 しかし、駐ベトナム韓国軍司令官チェ・ミョンシン将軍や当時韓国の共和党議員だったチャ・ジチョル(10・26朴正煕大統領暗殺事件の時、朴正煕とともに死んだあのチャ・ジチョル!)は、これに激しく反対した。チェ・ミョンシン将軍は生前に筆者に対し、自身は陸軍参謀部長でありベトナム戦は勝利できない戦争なので派兵自体に反対したが、朴正煕が自分をあえて司令官に任命し、一旦派兵されれば韓国軍が米軍に隷属され、米軍と共に泥沼に落ちるわけにはいかないので韓国軍の被害を最小化するために作戦指揮権だけは独自に行使しようと決心し、それを貫徹させたと話した。 彼はまた、韓国軍の作戦指揮権が米軍に渡されれば、ただでさえ韓国軍を米軍の傭兵と非難している共産陣営の宣伝に確実な証拠を与えることになると米軍を説得したと明らかにした。 特にベトナム戦争の場合、朝鮮戦争と同じように米軍なしには戦争遂行が不可能だったが、ベトナム側が自国軍に対する作戦指揮権を維持している状況で、韓国軍だけが米軍に隷属したら“全世界の笑い者”にならざるをえなかった。

 海外に出た駐ベトナム韓国軍が独自の作戦指揮権を確保するや、自国内である韓国でも作戦指揮権を取り戻さなければならないという主張が力を得ることになった。 当時のマスコミ報道を見れば、軍出身議員や専門家たちも方法や時期には多少の差異はあっても、皆一様に韓国軍独自の作戦指揮権を行使できないということは重大な主権侵害または留保であり、戦争が終わって10年以上も過ぎているにもかかわらず、これを取り戻せないのは恥かしいと口をそろえた。特に、このように重大な主権の譲渡が、国会の同意や批准もなしに李承晩の手紙一枚で成り立ったことは許されざることであるため、作戦指揮権を国連司令部にまかせることがしばらくは不可避だったにしても、この問題だけは直ちに正さなければならないということに異見はなかった。

 予備役准将で中央情報部企画室長を務めた共和党議員チェ・ヨンドは、作戦指揮権の委譲が国会の批准同意を受けていないため源泉無効であるとし、1966年10月29日に「国軍の作戦指揮権委譲に関する協定」の廃棄建議案を提出した。そして1968年1月21日に北側特殊部隊の大統領府奇襲事件である「‘武装共産軍の首都侵入」という未曾有の事態が発生し、逃走する北の特殊部隊員の追跡にヘリコプター1機を適時に出せない現実のために、対スパイ作戦だけでも作戦指揮権を移管させなければならないという声が軍内部で非常に高まった。しかし、米国は依然として独裁者を完全に信頼しようとはしなかったし、ベトナム戦争を経て韓国軍将軍たちの指揮能力に対する評価は大きく改善されはしたが、作戦指揮権を譲り渡そうとはしなかった。

駐ベトナム韓国軍司令官チェ・ミョンシンは
韓国軍の被害を最小化するために
作戦指揮権だけは独自に行使することを決意した
米軍なしでは戦争が不可能だったが
それでも韓国だけが米軍に隷属したならば
全世界の笑い者にならざるをえなかった

 1976年10月、在韓米軍の撤収を公約してきたカーター候補が米国大統領に当選し、在韓米軍の完全撤収または大幅削減が表面化すると、作戦指揮権委譲問題は新たな局面を迎えた。 特に第3世界非同盟運動が激しく展開され、アジア、アフリカの新生独立国が大挙国連加盟国になり、“中共”が安保理常任理事国になり、米国が主導してきた国連の雰囲気が変わった。これ以上は朝鮮半島に国連軍司令部を維持できない状況になった。

 1975年6月27日、米国主導の下に英国、カナダ、日本など西側6か国は、韓国政府との協議を経て休戦協定当事者である中国と北側が同意するなら、1976年1月1日を期して国連軍司令部を自主的に解体するという決議案を提出するまでになった。 在韓米軍の撤収と国連軍司令部の事実上の解体という条件下で、米国が一方的に行使してきた作戦指揮権も大きな変化を経ないわけにはいかなかった。1978年11月の韓米連合司令部創設はこのような背景の下に成り立ったのだ。

韓洪九聖公会大学教養学部教授

 朴槿惠大統領の当選で、韓国の民主主義が維新当時のままに後退したのではないかという話が多く出ている。 しかし、朴槿惠政権が作戦指揮権の移管を放棄したのは、維新政権どころか満州国時代へ回帰したのではないかと憂慮される。朴正煕は満州軍出身ではあったが、作戦指揮権移管のために自主国防を標ぼうし多くの努力を傾けた。 今、国防長官、参謀総長と名乗る者どもは、そのような図太さもないクソ将軍だ。朴正煕と朴槿惠の重大な違いは、朴正煕は彼自身が最高の軍事専門家だったが、軍事問題に白紙の朴槿惠は、参謀総長出身者らに囲まれて軍フィア(軍+マフィア)らの上客の役割をしているだけだ。朴正煕がそれなりに心血を注いだ自主国防は、今や途方もない防衛産業不正の温床に転落し、「陸防部」(陸軍が海軍/空軍の武器選定まで主導していることを比喩)は陸海空軍の均衡発展ではなく、米軍のズボンの裾をつかんで莫大な国防予算を浪費している。 ここはネバーランドなのか。大人になることを拒否する者が、どうして国民の生命と財産に対する保護責任を負えると言うのか。 韓国の安保が不安だと言うが、その本当の理由は無責任で無能力な者が自分たちだけが安保に責任を負えると独占しているためだ。

韓洪九(ハン・ホング)聖公会大学教養学部教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/politics/defense/665113.html 韓国語原文入力:2014/11/18 21:56
訳J.S(6635字)

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