▲ソウル市公務員スパイ事件の被疑者ユ・ウソン氏はスパイに追い立てられて1年にわたり法廷で苦しんでいます。 有罪を立証するとして乗り出した検察と国家情報院が、証拠ねつ造をしたという中国政府の通知にユ氏は強く絶望しました。 中国に留まっているユ氏の家族は、韓国で起きている事態をいらだつ思いで見守っています。 ユ氏とユ氏家族に再び会ってみました。 スパイであることを明らかにしようとしたのではなく、スパイをでっちあげようとしたのではないかと疑わざるをえない彼らは話します。
ソウル市公務員スパイ事件の被疑者ユ・ウソン(34)氏は、この頃インターネット ニュース検索で一日を始める。 言論が検察の証拠偽造疑惑を扱っていることに強く鼓舞された。 昨年初め‘ソウル市庁にスパイが勤めていた’と発表した検察の話を特筆大書した言論が、控訴審法廷で火が点いた証拠偽造疑惑には沈黙で一貫するや強く落ち込んでいたユ氏であった。
一部では‘国家情報院が非公式的に入手した文書であっても内容さえ合っているなら問題ない’という説明で事件の本質をぼかす主張をし始めた。 国家情報院が入手したという出入境記録がユ氏の実際のパスポート記録と内容が一致しないということを報道する言論は少ない。
"(ソウル市に勤めている時)脱北者ではなく(基礎生活)受給者を管理する仕事をしていたと言っているのに!" 去る20日夜、テレビ ニュースを見たユ氏が怒った。 テレビではある総合編成チャンネルの番組が‘ソウル市公務員スパイ事件’を整理するとして、ユ氏がソウル市で脱北者を管理していたと紹介していた。 誤った説明だった。 脱北者情報を北に渡したという疑いをかけられているユ氏は、マスコミの報道一つ一つに敏感だった。
"どうすればこんなことができるんですか。私は韓国が民主主義国家だと思って渡って来たのに、国家機関がこのように証拠をねつ造するとは考えもしませんでした。 私は本当に北韓が嫌いで渡ってきた人間です。 検察はなぜ私をスパイだと主張し続けるのでしょうか。" 20日夜、自身のソウル江東区(カンドング)の自宅で記者と会ったユ氏がビールをグッと飲みほして話した。 ユ氏は昨年8月に無罪判決を受け解放された後にも、今日までゆっくり眠れない日々を過ごしている。 理由もなく2時間に一回ずつ目が覚める。 その間に体験した苦痛による後遺症だ。 酒を飲めば少しはやく眠ることができる。 睡眠剤を1年近く飲み続けてきたユ氏は、今は薬に頼った睡眠を減らそうと努力中だ。
朝鮮族同胞が暮らす延吉(ヨンギル)でも
スパイ証拠偽造事件が知られるようになり
兄と妹の顔は相当に知れ渡ってしまった
TVに出てくるユ氏の顔が
家族にはうれしくもあり悲しくもある
ユ氏はインターネット ニュース検索で一日を始める
検察の言うことを特筆大書したマスコミが
証拠偽造疑惑に沈黙していることに
強く落ち込み絶望していた
北韓が嫌いで南韓に越えて来たのに…
ユ・ウソン氏は咸鏡北道(ハムギョンブクド)会寧市(フェリョンシ)で生まれ育った在北華僑だった。 ユ氏は「祖祖父が日帝に対抗して朝鮮人と共に戦った漢族独立活動家だった」と話した。 祖祖父は子孫たちが中国でなく朝鮮の土地に定着することを願った。 祖祖父は朝鮮半島で息を引き取った。 子孫たちは朝鮮の土地に定着し、韓国戦争以後そこは北韓になった。
しかし、ユ氏は成長するにつれて北韓政権が嫌いになった。 官吏たちは余裕綽々で暮らしているが、庶民たちはあまりに貧しかった。 父子世襲の独裁政権が続くことが不満だった。 2001年咸鏡北道(ハムギョンブクド)鏡城郡(キョンソングン)の京城医学専門学校を卒業した後、脱北直前まで会寧市(フェリョンシ)のある病院で準医師補助。 3年制の医学専門学校を卒業すれば準医師資格証を受ける)として勤めたという。 治療薬がなくて死ぬ住民がとても多かった。 医者たちは薬を引き出しては生計資金として使いもしていた。 病んでいる人々を治療して生きたくて医者になったのに、北韓で医師として生きているということがだんだん恥ずかしくなった。
ユ氏は在北華僑なので中国に行ける機会が他の人々に比べれば多かった。 豆満江(トゥマンガン)さえ越えれば、服も食べ物もあふれていたし、病気にかかった人々も病院で良い治療を受けていることを目撃した。 同じ空の下で、川一つを間に挟んで全く違う世界が広がっていた。
"北韓はみすぼらしい監獄のようなところでした。いくら医術が高くても、医療設備と医薬品がなくて決して患者を治療できない所でした。 ますます北韓社会が嫌いになりました。" しかし、ユ氏は中国ではなく韓国で暮らしたかった。 祖祖父の代から韓半島で韓民族のように暮らしてきたので中国人になりたいとは思わなかった。 自然に南韓での‘第2の人生’を考えるようになった。
ユ氏は2004年3月、北韓を出て中国-ラオス-ベトナム-タイを経て一ヶ月後に韓国に到着した。 生き残るために肉体労働、買出し商人など、手当たり次第に働いた。 苦労の末に2007年に延世(ヨンセ)大学校中文学科に編入し、2011年6月にはソウル市庁福祉政策課生活保障チームの契約職公務員になった。 生活が安定すると妹のユ・カリョ(27)氏を連れてきて一緒に暮らしたいと思った。 妹は父のユ・某氏とともに2011年7月に北韓を完全に出て中国籍取得のために延吉市(ヨンギルシ)に留まっていた。
ユ・ウソン氏は普段から自身と連絡してきた国家情報院関係者に連絡を取ったと言う。 "妹を韓国に連れて来たいと言うと、先生(国家情報院関係者)は‘韓国に連れて来れば面倒を見る’と言いました。 それで連れて来たのですが、まるで私が北韓保衛部の指示を受けて連れて来たかのように国家情報院と検察は主張しました。 どうしてこんなことができるのでしょう。"
ユ氏は国家情報院を信じていた。 2012年10月30日、妹を済州(チェジュ)空港を通じて入国させた。 国家情報院に自主申告した。 国家情報院が運営する京畿道(キョンギド)合同尋問センター(脱北者の身元などを確認する機関)に、妹が数ヶ月留まって調査が終ればまもなく一緒に暮らせるだろうとユ氏は期待した。妹はすぐに合同尋問センターに送られた。
しかし妹は解放されなかった。 2013年1月10日朝、国家情報院の捜査官がユ・ウソン氏のアパートに押しかけて来た。 目隠しをされて乗合車に乗せられた。 わけも分からないまま突然ソウル拘置所に収監され、青色の受刑服を着せられた。 妹を韓国に連れてくれば面倒を見ると言った国家情報院関係者は、その後ユ氏の連絡を受けようとしなかった。
国家情報院の説明はあきれるものだった。 妹のユ・カリョ氏が「兄はスパイ」と自白したということだ。 しかし裁判の過程でユ・カリョ氏は‘拷問を受けて虚偽の自白をした’として、それまでの国家情報院での陳述を覆した。 国家情報院の捜査結果に基づいて作成された検察起訴状の内容が事実と異なる点も多数確認された。 ‘民主社会のための弁護士会’所属弁護士が行った中国現地調査が大きな役割を果たした。 脱北者スパイ事件で中国現地調査が成されたことはこれまでなかった。
結局、ソウル中央地裁刑事21部(裁判長 イ・ポムギュン)は昨年8月22日、ユ氏の国家保安法違反容疑に対して無罪を宣告した。 検察は控訴したが、単なる通常の手続きだと思われた。
そんな風にして終わるかに見えたこの事件は、検察が新たな証拠を提出したことにより論難が始まった。 検察は昨年11月1日、ユ氏が北韓と中国を行き来する時に記録された出入境記録を控訴審裁判所に提出した。
記録にはユ氏が2006年5月27日午前10時24分、中国龍井市(ヨンジョンシ)三合辺境検査廠(中国‐北韓国境地帯の中国側税関)を通じて、北韓会寧市(フェリョンシ)から出た後一時間も経たずに午前11時16分に再び北韓に入り、2006年6月10日午後3時17分に同じく三合検査廠を通じて北から出たと記録されていた。 検察はこれを根拠に、ユ氏が2006年5月27日以後、再び北韓に行ったことはないという言葉は嘘だと主張し始めた。
ユ氏はこの出入境記録がニセ物だと確信した。 ユ氏は延吉(ヨンギル)に戻った妹に委任状を送り、自身の出入境記録の発給を受けるようにした。 驚くべきことに、検察が提出した出入境記録と異なるものだった。 中国公安が保管中のユ氏の実際のパスポート記録は、ユ氏が発給を受けた出入境記録とのみ内容が一致した。 法廷で偽造攻防が繰り広げられた。 去る17日、中国政府は韓国裁判所に公文書を送って‘韓国検察が提出した3件の文書は全て偽造’と通知した。 スパイ事件がスパイねつ造事件に局面が変わった。
<東亜日報>が報道したキム・某氏報道の真実
中国、延吉市(ヨンギルシ)に残っているユ・ウソン氏の家族は、毎日韓国言論の報道を見守っている。 中国同胞が多く暮らす延吉市では、韓国のテレビを視る世帯が多い。 ユ氏は中国延吉地域でも顔が相当に知られてしまった。 家族には毎日のようにテレビ ニュースに出てくるユ氏の顔がうれしくも悲しい。
"私とうちの兄を困らせた国家情報院の人々に、どのように復讐すれば良いでしょうか。 その人々は処罰を受けもせず、私の家族だけがとてもひどい苦痛を受けています。" 24日夜、延吉市で会ったユ・カリョ氏は、記者に会うやいなや国家情報院の話から切り出した。 いくら兄さんがスパイでないという証拠を持って出しても、検察はまた別の反論資料を提出して来るので当惑していると話した。
ユ・カリョ氏は去る数ヶ月間、和龍市(ファリョンシ)公安局と三合辺境検査廠などを歩き回ったという。 中国で調査されたことなどを韓国の裁判所が信じないかと思って、中国公安の説明が撮影された映像物も提出した。 検察はユ・カリョ氏が公安との親密な縁を利用して虚偽映像物を製作した可能性があると反論した。 ユ・カリョ氏は公安局に逮捕されるのではとおびえながらも、かろうじて探してきた証拠を虚偽と言い続ける検察の立場が伝えられるたびに涙を流したと語った。
ユ氏の父親はこの頃、癌と闘病中だ。 北京の大きな病院に行って手術を受けなければならないが、手術を先送りし続けていると話した。 息子が苦しい時間を過ごしているのに、気楽に手術を受けることはできないということだ。 ユ・カリョ氏は兄の無罪を立証できる証拠資料を捜しまわっているためにきちんとした働き口を持つことができず、最近小さな販売店の職員になったという。
父と娘は心から怒っていた。<東亜日報>の報道内容のためだった。 東亜日報はこの日朝、ある脱北女性キム・某氏の証言を報道した。 キム氏は "ユ・ウソン氏の父親が‘息子が保衛部南派スパイとして韓国に行っている’と私に話したことがある。 自分たちも華僑身分を偽って韓国に行くので私にも一緒に行こうと話した" とインタビューで答えた。 "スパイの役割をしたのかが重要なことなのに、いつ北韓と中国の国境を越えたのかを問い詰めることが何で重要なのか" とも話した。
ユ・カリョ氏と父親ユ氏の話を総合すれば、キム氏は2010年頃に会寧市でユ・カリョ氏家族としばし一緒に過ごした。 教化所(北韓の刑務所)を出てからいくらも経たず、行き来する所がなくなったキム氏をある知人が一緒に暮らしてはどうかと紹介したと言う。 ユ氏の母親が2006年に亡くなった後、ユ氏の家庭には母親の役割をする人が必要だった。 しかし生活指向が合わなくて、キム氏はユ氏家族と激しく争った後、半月で別れることになったという。
"カリョが‘兄さんが韓国で勉強している’と話したことはありましたよ。だが(私が)保衛部南派スパイとして行ったと話したか。 私たちと別れる時、非常に関係が良くなく別れたけれど、どうしてこういう嘘をつけるのでしょうか。" 父親のユ氏が激昂した表情で話を受け継いだ。
"半月しか一緒に住まなかった女に、息子の秘密を全て話して一緒に韓国に行こうというのが話になりますか? 息子が韓国で保衛部のスパイの仕事をしているならば、家族が何をしに韓国に行って一緒に暮らす工夫をしますか?" 原審法廷でキム氏はすでに東亜日報記者に言った証言をしたことがある。 1審裁判所は身元が分かり難い脱北者の一方的主張を受け入れなかった。 しかし東亜日報はこのような内容を記事に載せず、キム氏を‘客観的な第3の証言者’として扱った。
ユ・ウソン氏に不利な陳述をする脱北者は他にもいる。 チョン・スンオク(仮名・32)氏は原審法廷に出てきて、ユ・ウソン氏を2007年に北韓会寧市で見たと証言した。 チョン氏の話が事実ならば、2006年6月以後北韓に再び入ったことがないというユ氏の主張は疑わしくなる。
しかしチョン氏は、1998年にユ氏を初め路上で見た後、何と10年ぶりに会寧市の路上で偶然にユ氏を見たことを記憶しているということだった。 チョン氏はユ・ウソン氏と同じ学校で勉強したこともない。 会寧市近隣の遊仙市(ユソンシ)で暮らした。 一度も話を交わしたこともなく、同じ市に住んでもいない女性が、10年間に路上で二度会った男性を思い出すとは、どれくらい信頼に値する行動だろうか。 検察はチョン氏を裁判所に重要証人として呼んで尋問した。
法廷に出てきたチョン氏は、教化所に行ってきた夫の出監年度が2005年9月なのか2006年9月なのか、まともに答えることができなかった。 ただ10年間に路上で二度見たユ・ウソン氏の姿だけは正確に記憶した。 裁判所はチョン氏の話に重きを置かなかった。
"いったい、どのようにあんな人々を検察が探して法廷に証人として立たせるのか理解に苦しみます。" ユ・ウソン氏は自身の有罪を立証するために検察が偽証する証人を前面に立たせているのでないかと疑っている。 脱北者は韓国に来るまでの経歴と人生が全てベールに包まれていて、正体を正しく知り難い場合が多い。
国家情報院と検察は、ユ・ウソン氏に不利な資料は積極的に裁判所に提出する反面、起訴状作成に不利な参考証言は正式調書に作成しないものと見られる。
公訴維持に不利な捜査物はわざと脱落?
ユ・ウソン氏の友人ウィ・ドンマン(仮名・32)氏は、会寧市で幼かりし時からユ氏とともに育った。 彼は2004年11月に北韓から完全に出てきた華僑であった。ウィ氏はユ氏が昨年国家情報院に捕まった後、国家情報院捜査官の連絡を受けた。 ユ氏について知っていることを話して欲しいという要請を受けた。 ウィ氏が話した内容はどういうわけか正式調書に作成されなかった。
記者に会った重い口を開いた。 "ウソンは、私の‘幼友達’です。 スパイをするような奴ではありません。 北韓政権に批判的だった友達です。 私が2011年7月にユ・ウソンのお父さんとユ・カリョが完全に北韓から中国に出てきたと捜査官にはっきり言いました。 その時、私が延吉で食堂をする時だったためよく知っています。 ところが私がした話は後で見ると、正式調書に残されていませんでした。 なぜ私には法廷に出て行って証言する機会も与えないのか分かりません。" 北韓に残っていたユ・カリョ氏父娘は2011年7月に中国に完全に移り住んだのに、検察は北韓に拠点を用意しておいてユ氏父娘が北韓に出入りしていたと主張している。
ユ・ウソン氏は疑問が振り切れない。 "ソ・某氏という脱北者がいます。 2007年に会寧市から私とウィ・ドンマンが一緒に立っているのを見たと国家情報院捜査官に述べた人です。 ところが国家情報院はウィ・ドンマンが2005年から2009年まで中国山東省の煙台市(イェンタイシ)で食堂をしているので北韓に入ったことはないということを確認したと理解しています。 それなら2007年に会寧市でソ氏が私とウィ・ドンマンを見たと言う陳述は嘘だということを国家情報院が確認したわけです。 ところで、なぜ捜査機関がソ氏の主張だけを信じるのか理解に苦しみます。 ソ氏は7年も阿片を吸ってきた人だということも国家情報院は知っています。" ソ氏は原審法廷に出席することになっていたが明確な理由もなく出席しなかった。
ユ・ウソン氏は2006年当時、北京に交際中のガールフレンドがいた。 ユ氏が水痘を患った2006年5月27日から6月10日の間、ユ氏のガールフレンドは北京や長春などで彼を看護していた。 国家情報院と検察は、ユ氏が2006年5月27日から6月10日まで北韓に入り保衛部でスパイ教育を受けたと主張している。 ユ氏は国家情報院で調査された時、自身のアリバイを証明できるユ氏のガールフレンドの存在を捜査官に説明した。 ユ氏のガールフレンドは国家情報院捜査官の電話を受けたし、詳しい経緯を知らせてくれた。 しかし検察が裁判所に出した捜査目録からはこの陳述が抜けていた。
ユ氏の弁護を引き受けたキム・ヨンミン弁護士は 「検察が裁判所に提出する捜査目録には今まで捜査がなされた全てのものが整理されていなければならない。 ユ・カリョ氏が国家情報院で2012年11月と12月(国家情報院で虚偽自白することを決心する前)に述べたことが捜査目録からみな抜け落ちていて私たちが中間で抗議したことがある。 検察はミスだとして、その時になって捜査目録に追加した。 控訴維持に不利な捜査物をわざと脱落させたとすれば大きな問題だ」と指摘した。
国家情報院と検察が捜査過程で確認した‘ユ・ウソン氏に有利な証言’の内、捜査目録から抜け落ちているものが5件程度あるとユ氏は説明した。 なぜ自身に不利な証言だけを選別し脱落させて捜査目録が作成されたのか、ユ氏はその理由を知りたい。
ユ氏と親戚関係にあるまた別の脱北者は、国家情報院にパスポートを1年前に奪われて未だに返してもらえないという。 ユ氏が逮捕された後、国家情報院で参考人資格で調査を受けたこの脱北者は、ユ氏がスパイではないという趣旨で証言したという。 この証言の後、国家情報院捜査官から‘追放されるかもしれないので気を付けなさい’という言葉を聞いた。 怖くなってパスポートを返してほしいという話も、聞いてもらえないと知人たちは伝えた。
ユ・ウソン氏の叔母チョ・イングン(55)氏は、中国吉林省の四平市(スピンシ)に暮らしている。 2006年5月27日以後の10日間のユ氏の行跡をよく知っている当事者だ。 ユ氏は国家情報院捜査官に叔母の電話番号を知らせ、確認を要請したが何らかの理由で国家情報院は調査しなかった。
チョ・イングン氏は26日<ハンギョレ>と会い、無念な気持ちを爆発させた。 「カガン(ユ・ウソン氏が北韓で使った名前)が、母親の葬儀を済ませて我が家に来て、10日間(2006年5月末から6月初め)留まりました。 カガンが母親の死を悲しんで泣き続けていました。 カガンが私と一緒にいた期間に北韓にいたというのは話になりません。 カガンがその時、我が家に留まっていたことを見た隣人2人の確認書まで裁判所に提出したのに、いったいどうして韓国の検察は未だにその時カガンが北韓にいたと主張するのですか。" チョ・イングン氏は首を振った。
彼は記者に向かっていつになったら甥が自由の身になれるのか尋ねた。‘検察が無罪判決に対して控訴して、最高裁まで行くことになれば今後数年間は苦労することになるでしょう’と答えると、彼女はため息をついた。 「カガンは韓国が自分を受け入れてくれ、勉強も熱心にして良い所に就職できたと言って、本当に感謝していました。 それなのにどうして韓国は汚名を着せて人を困らせるんですか。 本当に韓国に失望しました。"
検察と国家情報院は‘その日’以後
ユ氏の行跡を証明する証人については
調査しなかったり、あるいは無視して
北韓でユ氏を見たという脱北者だけを
法廷で証人として立たせた
2007年、国家情報院の要請を受けて
北韓諜報活動をする脱北者から
情報要員活動を持ちかけられた
国家情報員によく思われた方が良かったが
ユ氏は断らざるを得なかった
ユ・カリョ氏がTVを見て驚く事情
ユ・ウソン氏の母親チョ・某氏は2006年5月22日に亡くなった。 韓国に留まっていた息子とこっそり電話通話をして、保衛部の奇襲取り締まりに引っかかったとのことがユ氏の話だ。 普段から心臓が良くなかったチョ氏はびっくりして心臓が停止した。 突然の死だった。 このことによりユ氏は保衛部要員になるのではなく保衛部を敵とみなす可能性がより高い。
しかし検察は、ユ氏と彼の友人、親戚らの一貫した陳述は無視して、ユ・カリョ氏が国家情報院で拷問を受けて虚偽の自白したと見られる陳述にだけ重心を置いていると見られる。 捜査過程でユ氏が北韓に出入りして、スパイ活動をしたとは見られない種々の証拠が確保されたにもかかわらずこれを無視して、スパイと見える証拠だけを綴り合わせて起訴状を作成したとすれば、これは‘スパイを捕まえる’ことではなく‘スパイを作り上げる’行為だ。
ユ氏はこのような状況が理解しがたい。 "結果をあらかじめ作っておいて捜査をするのと何が違いますか。 私がスパイでないという陳述をする人々の話は全部無視して、私に対してよく知らなかったり悪意を持っている人々の陳述だけを検察は受け入れています。 裁判所は妹が国家情報院でどんな拷問を受けたかについては事実を調べようともしません" ユ氏は2007年に、国家情報院の要請を受けて北韓諜報活動をしている脱北者から一緒に情報要員活動をしようと持ちかけられたことがある。 ユ氏は断った。 北韓と接触なく、知っている人もいなかったためだ。 国家情報院によく思われた方が良いということは分かるが、虚偽情報を渡すことは国益に役立たないというのがユ氏の判断だった。
"ひょっとしてその時、国家情報院の要請を聞き入れていたとすれば、私がこのようにスパイにされることはなかったでしょう。" ユ氏は自身がなぜスパイの疑いを買ったのか理解できない。
彼は‘平凡に暮らしたい’と訴えた。 「私は韓国で苦しい境遇にある社会的弱者を助ける生活を送りたいと思いました。 社会福祉大学院に進学したのもそのような理由からでした。 お願いですから私を平凡な韓国国民として暮らせるようにして下さい。" しかし、テレビのニュースにしばしば顔が出たために彼の顔を見知っている人が増えた。 地下鉄に乗れば人々がコソコソ言う。 生計のために課外教師のアルバイトをしていたが父母がユ氏の顔を識別したために、もう来るなと通知した。 安定した働き口だったソウル市公務員の働き口も失って、1年間法廷に行き来しているユ氏は一日一日が苦痛だ。
妹のユ・カリョ氏も同じだ。 自身を困らせた国家情報院捜査官が時々集会現場に現れて、テレビのニュースカメラに捉えられる。 テレビを見たユ・カリョ氏は肝をつぶすほど驚いてしまう。 こういう日は眠れない。
"国家情報院と検察の証拠偽造を明らかにすることが国益に外れると主張する人々がいましたよ。 無念な思いをしている人の恨を黙って埋めておくことが国益だと考えるというのは理解できません。" ユ・カリョ氏は祖国にしたくて渡ってきた韓国社会が、自身の期待とは全く違ったことが悲しい。
中国 延吉/ホ・ジェヒョン記者 catalunia@hani.co.kr