日帝強制占領期間に徴用被害にあった勤労挺身隊ハルモニが、強制労働の実状を光復(解放)68年ぶりに法廷で証言した。
光州(クァンジュ)地方裁判所第12民事部(裁判長 イ・ジョングァン)は4日、勤労挺身隊被害当事者と遺族など5人が日本の三菱重工業を相手にそれぞれ2億ウォンずつを要求した損害賠償請求訴訟の4次裁判を開いた。
この日ヤン・クムドク(85)ハルモニなど勤労挺身隊被害者は、幼い時期に日本に連れていかれ苛酷な労働と暴行に苦しめられた事実を直接公開した。
ヤン ハルモニは 「お金もくれるし中学校に行かせる」という日本人校長と憲兵の話にだまされて日本名古屋の三菱重工業航空機製作所で仕事をしたが、68年が過ぎても何の補償を受けられずにいる」と涙まじりに話した。更に「日本に行かなければ両親はただでは済まないという言葉に怖くなって引っぱって行かれ、飛行機の外側に塗装する仕事をさせられた」とし、「ペイントの毒性で今も目が不自由だ」と語った。 また「工場で出されるおかずは味噌汁と梅干、たくあんだけだった」とし「作業中に地震が起きて鉄格子がからだに突き刺さり死にそうになった」と証言した。
ヤン ハルモニは1944年5月30日に全南(チョンナム)羅州(ナジュ)のある小学校に通っていたが、日本に連れていかれ1945年10月20日に故国に戻った。
ヤン ハルモニは日本人校長と憲兵の強要と脅迫にやむを得ず日本に行くことになった事情、日本での残酷な生活、何の補償も受けられなかった現在までの過程などを恨みを込めて話した。
特に故国に戻った後も、日本軍慰安婦と誤解され自身はもちろん両親と兄弟、子供までが深刻な苦痛に苦しめられた事情を吐露した。 日本で仕事をしてきたという理由だけで、夫が自身を去った悲しい出来事も伝えた。
ヤン ハルモニなど被害者側の本人審問が続く間、日本から来た‘名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援 する会’の日本人たちと青少年が真剣な表情で裁判を見守った。 傍聴客の一部は涙を見せもした。
裁判所も特別な証言に立ったハルモニに配慮して、審理を進行する前に異例的に言論の写真撮影を許諾した。
光州/アン・クァノク記者 okahn@hani.co.kr