三回にかけて‘人文学講座’をする機会があった。(私が最近出した本<哲学を再び書く>に込めた意味を解説する席であった。) 初めての講座‘善と悪’は反応が相当だった。 しかし‘有と無’は充分でなかった。 最後の講義である‘するとされる’では雰囲気を変えてみようと思い、冒頭にイ・サングク詩人が書いた‘麺が食べたい’を読んだ。 詩が良いのでこの場にそっくり書き写す。
"麺が食べたい-イ・サングク
生きることはご飯のように飽きないことであっても/時には粗末な食堂で/母親のような女が煮てくれた/麺が食べたい//人生の隅で心が傷つき/街頭に出れば/故郷への長い道を/牛を売って帰ってくるように/後ろ姿が何となく寂しい人々と/麺が食べたい//世の中は大きな宴会場のようだが/どこかにはいつも泣きたい人々がいて/村の門は閉ざされて闇が飢餓のような夕方/涙の跡のために/中が広々と垣間見られる人々と/麺が食べたい。"
そして "私も真似して詩を一つ書きました。 聞いてくれますか?" 尋ねてみると、詠じてみろという。 ウフム、一つ咳払いをして吟じた。
教授たちに会ったら兄と呼ぼう
教授兄、絞首刑…そして首をくくろう
(※教授兄と絞首刑はどちらも韓国語ではキョウスヒョン)
"教授たちに会ったら/兄と呼ぼう/教授兄、教授兄、絞首刑……//そして/首を括ろう。"
笑いが弾けた。 私の耳には不穏な笑いに聞こえた。 なぜそんなに笑いが起きたのだろうか? ‘教授’とはこの国で最も尊敬される職業だ。 その‘教授’たちが首を括ろうというので、‘ウ─’という声の代わりに頭を首を縦にふりながら笑った?
その講義を聴きに来た人々は‘制度教育’に飼い馴らされた方々だ。 短くて6年、長くて20年以上。 ‘飼い馴らす’まさにピッタリだ! ‘道に入る’‘入道’,‘修道’次は‘得道’あるいは‘道通’だ。 得度したり道通すれば、どこに足を踏み入れようがそこが道だ。 生きる道であり生かす道だ。
ところで山川も変わるという10年をはるかに越えて教育を受けても、若者たちに開かれた道は何か? ‘失業者’でなければ‘非正規職’ではないか? それを本分にしようと‘飼い馴らされる’? その最後の道案内が‘教授’だ? 飼い馴らされて出てみると生きる道が見えない? ‘絞首刑’にさせて当然ではないか?
節度ある人が節度のない人々を分別があり(韓国語:節を持つ)物心がつく(同:節が出る)ようにするのが教育であり教えだ。 この教えは自然の中では自然に成り立つ。 春、夏、秋、冬。 自然の中で自然と共に生きる人々は季節を迎えながら‘分別を持ち’、季節を終えながら‘物心がつく’。
いわゆる‘制度教育’は去る200年間、子孫を自然から隔離させ‘分別ない’ことばかり教えるのに努力してきた。 ‘人間の’、‘人間による’、‘人間のための’教育は、そうしてこそ当然だと言い張った。 それがすなわち‘飼い馴らす’教育だった。
その結果はどう現れたか? 世の中を見てごらんなさい。 無力なアフリカの辺境の地で力の強い国々が建てた‘メガロポリス’に至るまで。 生きる道がどこにあるのか? どう助ければ良いのか? 人だけでなく生命界全体が死の道に入り込んでいる。
‘政治’とは何か? 正しく治めることだ。 ‘束ねること’だ。 ‘暖かく’ ‘みなを生かす’道だ. 自然ではその役割を‘お日さま’が、‘太陽’が努めている。 それで古より‘統治者’は‘人民の太陽’、すなわち庶民を分別あって物心つくようにして生きる道を見つけられるよう光となり日差しだった。
文で教えて(教)育てる(育)ことが‘生かす’道がないなら、その教育は何の役にも立たない。 ‘人生’とは何か? ‘命’をつないでいくことが第一だ。 喉から出入りする息、‘吸気(ツルスム)’、‘呼気(ナルスム)’が‘命(モクスム)’だ。 命は鼻と口から出入りする‘風’だ。 私たちの喉が5分間でも風を受け入れられなければ私たちは死んでしまう。 皆が生きることを願う。 それが私たちの風(パラム)であり、願い(パラム)だ。 ‘制度教育’にこの風が通じるのか? 希望があるのか? ない!
‘真理’とは何ぞや‘虚偽’とは何ぞやと問うことをやめよう。 どんな時に‘本当’と言い、どんな時に‘嘘’と言うのかと尋ねよう。 ‘存在’とはとか‘無’とはなどと尊大ぶることをやめよう。 ‘善’がどうだとか‘悪’がどうだとか‘共同善’や‘公共の敵’とか、むやみに口にすることをやめよう。 やりとりする‘言葉’と、する‘振る舞い’が良い悪いを分かるようにしよう。 そうしてこそ、3才でもわかり、文盲の田舎の老いた方でもわかる言葉で話してこそ真の教えであり、良い教育で、すべての人を政治、経済、社会、文化、芸術の主体にむかえる民主政治がきちんとできるのだ。
‘教育は百年の計’と口先だけで話す人々が多い。 そうじゃない。 人類がこの地球上に現れた瞬間から今日に至るまで人は本能だけでは生き残れなかった。 教えて習わなければならなかった。 去る200年前でも、この‘教育’の最も大きな師匠は自然だった。 春、夏、秋、冬に応じて植えて育てて収めてこそ生きる道が開かれることを話し、分別あって物心つくようにしてきた。 その教えを、先に分別がついて物心ついた村の大人たちが手伝った。 その時には資本主義産業文明を後押しする‘イデオロギー請負業者’らは教育に取り付くことはできなかった。
制度教育で、君は体制のネジ釘、私たちはネジ釘を削る機械工に過ぎない
教育の窮極目的は何か? 人も‘生命体’であるから死なずに生き残ろうとするなら、自ら身の回りのことができなければならない。 そうするためには幼い時から熱心に手足を遊ばせ、からだを遊ばせ、食べること、着ること、寝ることを用意するからだを作り、心がけを備えなければならない。 今‘教育者’たちがこんなことしているか? もしや‘教科書’を丹念に覚えて、一つしかない‘正解’を毛抜きのように指摘すれば、頭さえよく回せば、美味しいものを食べて安楽に暮らせるようになるとそそのかしているのではないか? ところで本当に人生の問題に正解は一つだけなのか? 人は一人で自分の身の回りのことができる生命体に生まれることはできなかったので、互いに助け合いながら生きるほかはない。 そうならば、集まって暮らさなければならなくて、話を交わして‘コミュニケーション’しなければならない。 人生に‘正解’があるのなら、それを互いに知らせて皆が同じく一緒に暮らさなければならない。 ‘知らずにいる人に知らせようともせず、知っている人に訊こうという意欲も出すな。’これが生きる道、互いに助けようにつながる‘教育’か?
‘教育の究極目的は個体生存維持能力を培養し社会性に基づいた協同能力を育成することだ。’(このように力のある‘学者’たちが力の強い国から密輸入してきた難しい学問なまりで書いてこそ往年の大学教授らしいだろう。 だから‘絞首刑’モノだよ。)
今、制度教育の現場でこのような教育が成り立っているか? 私が見るには違う。 そういう私もこのような教育を受けて見たことがなく、させて見たこともない。 現在の制度教育は人と自然が互いに世話し合わず、自然は利用だけしても、木と森を燃やしても、他の生きものたちが皆命を失っても、人同士だけが生き残る道があるならばその道を探そうと捩れている。 しかしそのような道はあるのか? 栽培したことのある人なら知っている。 小麦も、麦も、稲も、豆も、とうもろこしも、人も一人で暮らす道はない。 人も家畜もそれを食べずには生きられないこの米粒も、人が世話しなければ生きられない。 毎年収穫して、次の年に土に埋めてこそ蘇る。 人々はこの米粒に支えられて生き、この米粒も人が世話してこそ生きる道が開かれる。 なぜ人だけが希望なのか? 命として出入りする風も、私たちのからだの中を流れる水も、血をあたためる日差しも、あらゆる食べ物、着るもの、寝床に役立つものなどを用意してくれるこの土地にも希望がなければならないのではないか? 麦とトウモロコシの希望を歌って何が悪いのか?
去る3月25日、慶北(キョンブク)地域の自律型私立高で全校主席になった高校2年生がアパートの20階から飛び降りた。 ‘私の頭が心臓を齧って食べることに、もうこれ以上耐えられない’という文を残したと言う。 これが私たちの教育現実だ。
‘心の置きどころがなくても頭だけを使え。 からだも手足も適時にちゃんと遊ばせられず‘キョンシー’や‘ゾンビ’になっても頭さえよく転がせられればそれで良い。 君を待っているのは‘資本主義人材市場’だ。 君は売ったり買ったりする体制のネジ釘に過ぎない。 私たちは‘権力と体制の守り手’であり、ネジ釘を削る機械工であるだけだ。’この生徒が聞いた話は‘幻聴’だったか?
七十を越えたこの齢になっても私は子供たちと遊びたい。 全身で遊びたい。 熱心に手足とからだを遊ばせて、この世の中に役立つ‘勤勉な働き手’として育てたい。 自然の中で分別がつき物心がつく節のある人に育つようにしたい。 共に学び、互いに教えをやりとりしたい。