釜山市東区凡一洞(トング・ポミルドン)にある子城台(チャソンデ)公園が、今年初めに「釜山鎮城(プサンジンソン)公園」に変わった。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)と日本による植民統治の影響で日本の城郭構造の概念である母城(本城)と子城(支城)から由来して付けられた名称が、本来の名称に戻ったのだ。
26日、関連学界と『朝鮮王朝実録』によると、宣祖25年(1592年)の旧暦4月13日に朝鮮を侵略した倭軍は、翌14日、凡一・佐川洞(チャチョンドン)にあった釜山鎮城を陥落した後、1593年3月から8月までのあいだに約1万人を動員し、近くの甑山(ジュンサン、海抜130メートル)に倭城を築いた。石材は陥落した釜山鎮城から調達した。
倭軍は甑山倭城から東に1キロメートルほど離れた凡一洞の丘陵(海抜36メートル)に、母城である甑山倭城の防御と海上補給路の確保のために、「子城台倭城」を築いた。当時、子城台倭城は海に接していた。城を築いた武将の毛利輝元は、ここで後方兵站船を確保する任務を遂行した。子城台倭城は倭軍の先鋒を務めた小西行長が戦いの間しばらく滞在したこともあり、小西城とも呼ばれた。
1598年12月、倭軍が敗退した後、朝鮮の朝廷は倭軍が兵力補充、物資補給などのための前進基地とした子城台倭城を補修し、「釜山鎮城」として使用し、大韓帝国末期まで水軍を駐留させた。日帝強占期、朝鮮総督府は1944年にここを公園にした後、「子城台公園」と告示した。ここで「子城」という表現が復活した。釜山市はここを1972年6月、市記念物第7号に指定し、釜山鎮支城と名付けたが、釜山の人々は引き続きここを子城台と呼んだ。
住民を中心に、地域では子城台公園の名前を変えるべきという声が絶えずあがってきた。そもそも日本の城郭構造の概念から出た名前であるうえに、日本による植民地時代を経て名称が固定化したのであり、韓国の歴史性と象徴性を考慮すれば釜山鎮城に呼び直すのが正しいという論理だ。
釜山市は2020年1月、記念物第7号を釜山鎮城に変えた。しかし、都市公園である子城台公園の名前を変更するには、区郡地名委員会、市道地名委員会、国家地名委員会を通過しなければならないなど手続きが複雑であるため、そのまま子城台公園として残った。その後2021年から釜山鎮城に名前を戻そうという運動が本格的に繰り広げられ、東区も同年6月から地名変更手続きを推進した。
東区側は「区・市・国家地名委員会の審議を順に経て、今月4日に国土地理情報院の告示を通じて、子城台公園の名前が釜山鎮城公園に最終変更された」と明らかにした。東区は「子城台」が含まれたバス停3カ所など施設物の表記を「釜山鎮城」に直す予定だ。東区の施設緑地課の関係者は「近いうちに案内板の整備や広報など後続措置を施行する計画」だと話した。