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106年前の日帝時代に独立運動家が起こした「慶州郵便馬車事件」の現場を訪ねて

登録:2021-10-18 10:36 修正:2021-10-19 22:13
15日、蔚山博物館「固軒 朴尚鎮、独立闘争の道」フィールドワーク 
満州独立軍基地支援のため、郵便馬車の税金を奪取した現場など 
蔚山・慶州一帯の光復会と総司令・朴尚鎮の縁故地を巡る
106年前の大韓光復会の慶州郵便馬車事件の現場である孝ヒョン橋の入り口で、シン・ヒョンソク蔚山博物館長が当時の状況を説明している//ハンギョレ新聞社

 大韓帝国が日本帝国に国権を奪われ強制合併されてから5年後の1915年12月24日早朝のことだった。慶尚北道慶州市(キョンジュシ)の孝ヒョン洞(ヒョヒョンドン)と栗洞(ユルドン)の間の兄山江の支川にかかる孝ヒョン橋で、大邱(テグ)に向かっていた郵便馬車の現金袋が盗まれる事件が発生した。日帝が慶州郡・迎日郡(ヨンイルグン)・盈徳郡(ヨンドクグン)から徴収した税金8700ウォン(現在の推定貨幣価値で約2億5千万ウォン)だった。

 遅れてその事実を知った日本人の御者が急いで馬車を引き返して警察に通報し、日帝の警察が慶州と近隣地域に非常事態をかけ、犯人探しに乗り出したが、無駄だった。この事件は当時、朝鮮総督府の機関紙「毎日新報」が2日後に「慶州-阿火間で官金強奪」という見出しの記事を掲載し、一般に知られた。しかし、この事件が8月25日に大邱の達城公園で秘密裏に結成された全国規模の独立運動団体である大韓光復会が、満州独立軍基地支援のために起こした「旗揚げ」だったという事実は、さらに数年が経ってから明らかになった。

 蔚山博物館は15日、20人余りが参加した中、「固軒 朴尚鎮(パク・サンジン)独立闘争の道」と題するフィールドワークを行い、慶州市の孝ヒョン橋の現場を訪れた。固軒 朴尚鎮は光復会総司令として当時の行動を企画・指示した蔚山出身の独立運動家。今年彼の殉国100周年を迎え、フィールドワーク行事を準備した。

 同日のフィールドワーク参加者は、シン・ヒョンソク蔚山博物館長の説明を通じて、当時「郵便馬車事件」を敢行した光復会隊員が権寧万(クォン・ヨンマン)、禹在龍(ウ・ジェリョン)であり、禹在龍が孝ヒョン橋の木の橋を壊し、郵便馬車が橋を避けて河川沿いを行くようにし、権寧万が緊急患者であるかのように装いあらかじめ馬車の座席に乗っておいて、税金を外に盗み出して逃げた事実を知った。権寧万が部外者の搭乗が禁止されていた郵便馬車に乗り込むために「俳優顔負けの」患者の演技で日本人の御者の心を動かしたというくだりでは、皆がハラハラし、安堵のため息をついた。ある40代の主婦は「私が今立っているここが106年前に光復会の活動した歴史の現場だということが、新鮮で不思議に思える」と話した。フィールドワークの参加者は全員新型コロナの2回目の接種完了後14日が過ぎた成人たちだった。

106年前の慶州郵便馬車事件の現場の孝ヒョン橋。当時、この橋は木でできた橋だった//ハンギョレ新聞社

 彼らは、当時光復会がその後も平安北道の雲山金鉱の現金輸送馬車襲撃、大邱の親日富豪拳銃襲撃など、武装独立闘争のための軍資金集めのために様々な活動を展開したことについても説明を聞いた。そして、このような活動を指揮した総司令の朴尚鎮が後日、満州の青山里の戦闘で有名になった金佐鎮(キム・ジャジン)を副司令に任命し、満州に派遣した事実も知ることができた。朴尚鎮本人も、全国的に吹き荒れた日帝の光復会検挙の波を避け満州に渡る機会を探っていたが、母親が危篤だという伝言を受け、周囲の引き止めも振り切って慶州の実家に行き、待機していた日帝警察に捕まり母親を看取ることもできなかったという話を聞いて、参加者はみな涙ぐんだ。夫婦同伴でフィールドワークに参加した70代のソン・ウギョンさんは「歴史を忘れた民族に未来はないという言葉が切実に感じられる」とし「独立闘争の民族的大義と、子としての人間的な情の間で苦悩した朴尚鎮の気持ちを思うと胸が痛む」と話した。

 日帝に捕らえられた朴尚鎮はひどい拷問を受けて監獄暮らしをし、獄中で3・1独立運動と青山里の戦闘の知らせを聞いたという。その後死刑を宣告され、1921年8月11日、大邱監獄で死亡した。1884年12月7日生まれ、36年6カ月余りの短い人生だった。彼は獄中で死を目前に「無一事成功去/青山嘲緑水嚬(何一つ成し遂げたことなくこの世を去るとは、青山が嘲弄し緑水が眉をひそめる)」という内容の漢詩を残した。

光復会総司令の朴尚鎮の生家で、朴尚鎮の曾孫のパク・ジュンフン蔚山北区歴史文化研究所長が、フィールドワーク参加者に生家にまつわる話を語っている//ハンギョレ新聞社

 蔚山博物館のシン・ヒョンソク館長は「朴尚鎮は裕福な両班(ヤンバン)の家に生まれ、個人の栄達と幸せのために生きることもできた。1910年に判事登用試験に合格して発令を受けたが、日帝に国権が侵奪されると、『植民地の官吏にはならない』といって辞任し、財産を整理して独立運動に飛び込み、日帝の武断統治が激しかった時代に秘密結社である光復会を組織し、国内の独立運動の空白をしっかりと埋めた韓国独立運動史の先駆者だ」と評価した。さらに「それまで対立して散らばっていた全国の義兵闘争と啓蒙運動系列の独立運動家らを集め、光復会を組織した『統合のリーダーシップ』は、殉国100周年を迎える今の現実でも新たに切実に感じられる」と述べた。

 同日のフィールドワークの参加者は、シン館長の案内で、蔚山市の北区松亭洞(プクク・ソンジョンドン)にある朴尚鎮の生家(蔚山市文化財資料5号)や、慶州市で暮らした場所、妻の実家の崔家富豪の家、墓所などを見て回った。生家では、朴尚鎮の曾孫で蔚山北区歴史文化研究所長のパク・ジュンフン氏が「1925年前後の蔚山の両班家屋の一形態」と述べ、生家の意味と価値を説明した。彼は最近刊行した曽祖父・朴尚鎮に関する著書『歴史、その中の歴史』で、「(曽祖父は)最初から望んだ人生ではなかったとしても、時代が望んだのだからその荒波の中に進んで自らを投じたのだろう。日帝強占期という時代を迎え、光復のための火付け役となり燃え盛った花火のような人生だった」と語った。

文・写真/シン・ドンミョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/yeongnam/1015505.html韓国語原文入力:2021-10-17 21:01
訳C.M

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