不在の重み、現在の責任
「女性人権運動家」と自らを紹介した名刺。キム・ボクトンさんは世界を巡って被害事実を勇気をもって証言することで「慰安婦」問題に対する国際社会の関心を高め、国を超越した戦時性暴力の被害者の連帯を引き出すという、活動家としての人生を送った=イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
「本人が、証拠が生きているのに証拠がないなんて、話になりますか」
日本軍「慰安婦」の強制連行の事実を否定する歴史修正主義を支持する日本の極右政治家たちの発言が相次いだ2012年7月、「国家が組織的に、国家の意思として女性を拉致した、人身売買をしたという事実はないというのが、日本の多くの歴史学者の主張」と主張する橋下徹大阪市長の市長執務室の前で面談を要請し、堂々と非難した日、キム・ボクトンさんは薄紫色のワンピースを着ていた。翌年、日本の各地域を巡回する証言大会に参加した時も、ソウルの水曜デモでもキムさんは端正なこのワンピースを好んで着た。
キム・ボクトンさんが生前好んで着用していた薄紫のワンピースと蝶のスカーフ=イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
ソウル鍾路区中学洞(チョンノグ・チュンハクトン)の旧在韓日本大使館前の平和路に降り注ぐ日差しを防いでくれた帽子とサングラスも、水曜デモの必需品だった。水曜デモの現場で「ハルモニ(おばあさん)に名誉と人権を」と記された黄色いチョッキを着て撮った写真とともに、「女性人権活動家キム・ボクトン」と自らを紹介した名刺は、彼女の人生の歩みがどこへ向かったのかを示す象徴だ。スイスのジュネーブで開かれた国連人権理事会への出席のために使用した国連の入場証と各国の出入国印が押さたパスポートには、世界を股にかけ、被害事実を勇気をもって証言することで「慰安婦」問題に対する国際社会の関心を高め、国を超越した戦時性暴力の被害者の連帯を引き出した彼女の足跡が刻まれている。
2019年1月28日のキム・ボクトンさんの永眠後も被害者の死は続き、残された生存者は14人。歴史の真実を伝え、正そうとした人々が去った席は、熾烈だったその生の重みを加え、残された人々にとって重い責任となった。そこで、今年再び迎える日本軍「慰安婦」被害者追悼の日に、すでに逝った人の不在を振り返らせてくれる遺品を見てみようと思う。
片目が失明に至るほど不自由だったキム・ボクトンさんの目を保護した眼鏡とサングラス=イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
2012年10月3日昼、ソウル鍾路区中学洞の在韓日本大使館前で開かれた「日本軍慰安婦被害者問題の解決のための第1042回水曜デモ」に参加したキム・ボクトンさんの眼鏡に、参加者たちが映っている=イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
入浴用の洗面器ときゅうりの香りのする石鹸、入れ歯と塩、タオルは、きれい好きだったキム・ボクトンさんの長旅にいつも同行していた品々だ=イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
スカートなどを固定する安全ピンと十ウォン玉の入った財布。小銭を握っていればあまり車に酔わないと感じたキムさんは、水曜デモの行き帰りの車中でこれをしっかり握っていた=イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
必要な時に備えて過去に使っていた医療保険証、手帳などとともに古いかばんに保管してあったキムさんの証明写真=イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
スイスのジュネーブで開かれた国連人権理事会への出席のために使った国連の入場証と、各国の出入国印が押してあるパスポート=イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
93回目かつ最後の誕生日となった2018年4月26日の午前、キム・ボクトンさんがソウル麻浦区延南洞の平和のウリチプ2階の自室で、祝いに来た人たちと話している=イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
2019年5月4日に撮影したソウル麻浦区延南洞の平和のウリチプ2階のキム・ボクトンさんの部屋。イ・スンドクさん、キム・ボクトンさんが亡くなり、キル・ウォノクさんも息子の家に居を移したため、平和のウリチプは2020年10月末に閉鎖された=イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
イ・ジョンア記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )