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[記者手帳]私たちはあきらめない

登録:2016-12-19 00:33 修正:2016-12-19 06:54
2015年8月15日、米ワシントン海軍記念劇場で日本軍「慰安婦」を扱ったドキュメンタリー映画「最後の涙」(The Last Tear)の上映後、制作陣が観客にあいさつをしている=「最後の涙」制作チーム提供//ハンギョレ新聞社

 16最の青春花盛りの頃、1939年に海岸に貝拾いに出かけ、日本軍に連行された。春の日差しのなかでこの世に生まれ、クァンダン村(慶尚南道南海郡コヒョン面)から外に出たことのない少女だ。6年間、満洲と上海の「慰安所」をめぐった。少女の明るい夢は粉々に砕け散った。一緒に連れて行かれた従妹は、日本軍の銃に撃たれて死んだ。

 1945年の解放とともに地獄から解放された。故郷の村にまっすぐ帰ることはできなかった。「これまでどうやって生きていたのか」と聞かれるのが怖かった。家族を傷つけたくなかった。3年後、夢にまで見た故郷に帰ってきた。「地獄での6年」は誰にも気づかれず胸に秘めた。辛抱強く生きた。「とても赤ちゃんが欲しかった。でも持つことなどできない。34歳の時だったか、孤児院から赤ちゃんを3人連れてきて育てたのさ」そのようにして一男二女に愛情を注いだ。

 2012年、女性家族部に「慰安婦被害者」として登録した。90歳の時だ。孫たちも学業を終えたので「もう真実を明らかにしなければならない」と心に決めた。生涯そうであったように、まめに動いた。2014年から「ハルモニ(おばあさん)聞かせてください」という「訪問講演」で地域の学校を数多く訪れた。「日本に堂々と顔を向けて生きなければならない。国のない百姓がどれほどかわいそうか知らないだろう。勉強を頑張ってしっかりした国を作りなさい」。お金がなく生活苦を抱えながら勉強する生徒たちに、毎年奨学金を与えた。

 解放・光復70周年である2015年「世界『慰安婦』メモリアル・デー」の8月14日、南海(ナムヘ)女性能力開発センターの前に「平和の少女像」が置かれた。南海郡庁はその場を「スギ公園」と名づけた。具合が悪くその日は行けなかった。誕生日であった今年5月20日、初めて行ってみた。「あなたがスギかい?わたしもスギだよ」

 パク・スギ。16歳で貝拾いの最中に日本軍に連行された、今は90を超えたハルモニがその少女だ。「いい、いい、本当にいい、今日は私の生涯で一番忘れられない日だ」。昨年8月15日には、ハルモニをインタビューしたドキュメンタリー映画「最後の涙」がニューヨーク・東京・南京・上海で同時上映された。スクリーンの中のハルモニが訴える。「私を慰安婦と呼ばないで。ハルモニと呼んでください」

 2016年12月6日午後8時40分、無慈悲な歴史の車輪に踏みにじられながらも、一瞬たりとも尊厳を失わないよう努めたパク・スギさんが永眠された。

 チェ・オギ(2月15日)、キム・ギョンスン(2月20日)、コン・ジョンヨプ(5月17日)、イ・スダン(5月17日)、キム○○(6月22日)、ユ・ヒナム(7月10日)。これらの名前を知っているだろうか。

 朴槿恵(パク・クネ)政権と安倍晋三政権が「最終的・不可逆的解決」とし、日本軍「慰安婦」被害者問題を「強制封印」しようとした12・28合意発表後に亡くなった被害者のハルモニたちだ。「謝罪の手紙」は「毛頭考えていない」という安倍首相と12・28合意のせいで、死んでも死にきれない状況だ。

もはや生きておられるのは39人だけだ。みな90歳前後である。

イ・ジェフン統一外交チーム長//ハンギョレ新聞社

 パク・スギさんは亡くなる前に「スギ公園の下に埋めてください」とお願いした。ハルモニは故郷の海を見下ろす丘の少女像として「歴史」になった。そして17日、慶尚南道山清(サンチョン)のガンジーマウル(村)学校の校庭に「ガンマ(ガンジーマウル)少女像」が建てられた。少女像の除幕式の名前は「いまや永遠の春」。子どもたちが叫ぶ。「ハルモニたちが失った春、いつも春の私たちが忘れずにいます」

 キム・ボクドンさんの言葉が耳もとで繰り返される。「私たちの後に育つ若者たちがいるから、彼らを信じて最後まで戦う」ハルモニたちはあきらめない。私たちもあきらめない。

イ・ジェフン統一外交チーム長(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/politics/diplomacy/775108.html 韓国語原文入力:2016-12-18 19:10
訳M.C(1741字)

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