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[歴史と責任(1)] セウォル号の悪魔、大韓民国の悪魔…

登録:2014-05-27 09:28 修正:2014-09-03 15:24
韓洪九(ハン・ホング)教授のセウォル号惨事 特別寄稿
背中に荷物を負った避難民たちが1950年韓国戦争当時に爆破された漢江(ハンガン)鉄橋横に臨時に架けられた吊り橋を渡っている。 避難民たちは牛に荷物を負わせて運び、食糧が無くなれば牛を食べもした。 <ハンギョレ>資料写真

セウォル号は私たちに峻厳な問いを投げかける。 責任とは何か? 歴史の前で責任を負うとは何か? 私たちにとって下着姿で逃げる呆れた船長の姿は見慣れない姿ではない。 あのあきれた姿を、私たちは歴史の曲がり角で数多く見てきた。 もしかしたら、あのひどく気味悪い姿に今後も再び繰り返し出会うことになるかも知れない。 ‘セウォル号の悪魔’と呼ばれた船長は、ある日突然に空から落ちて来たわけではない。 私たちが生々しく動画で繰り返し見ることがないからそうなのであって、私たちの歴史の中にセウォル号の悪魔を上回りこそすれ決して下回らない悪魔はあまりにも多かった。 どうしてトオル(金容沃 キム・ヨンオク)先生の文で指摘された壬辰倭乱当時の先祖や韓国戦争時の李承晩だけだろうか。

 セウォル号事件が起きる直前、私たちの社会は泰安(テアン)近海で海兵隊キャンプに参加した高校生5人が波に巻きこまれ亡くなる悲劇を体験し、その2ヶ月後には慶州でリゾート体育館が崩壊して大学生10人が亡くなる悲劇を体験した。 このような事前警告音にもかかわらず、セウォル号事故が再び起きたため、みじめでうろたえることこの上ない。 3・4か月が過ぎれば前の事故がそうだったように、セウォル号事故も忘れられてしまうのだろうか? セウォル号事故がまた警告音になるかと思えて不安だ。 セウォル号が沈んだまさにその日、核マフィアたちを含む原子力安全委員会は設計寿命が終わった原子力発電所古里(コリ)1号機の再稼働を承認した。 規制緩和? 寿命延長-納品不正-マフィアの相互黙認…。 予告された人災の全てのものがそのままだ。 21年前、西海(ソヘ)フェリー号事件で私たちは何を学んだのだろう? 事故が起これば、その時だけあれこれ対策が乱舞するが、事故は再び忘却のわなにはまった私たちに襲いかかってくる。 責任を負わなければならない人々の無責任、身内で食い散らかす‘海洋水産部マフィア’、人命軽視、安全不感症…。 個々の診断が誤っているわけではない。 本当の問題はこのような問題が互いに絡まり混じり合っていて、どこから手をつけるべきか、茫漠としている点だ。 革命を通じて一刀両断でこんがらかった結び目を断ち切ることが不可能ならば、私たちは苦痛であっても注意深く私たちが解かなければならない問題がこれほど絡まってきた過程を見て回らなければならない。 セウォル号事件以後、多くが語られてきたが、1950年6月北朝鮮軍の全面攻勢以後、大統領李承晩がソウルを捨てた当時に立ち返ってみよう。

 私たちの歴史の中にセウォル号の悪魔を上回りこそすれ決して下回らない悪魔はあまりにも多かった。 1950年6月の北朝鮮軍全面攻勢以後、大統領李承晩がソウルを捨てた頃に立ち返ってみよう。

じっとしていなさいセウォル号に、じっとしていなさいソウルに

 セウォル号船長イ・ジュンソクがそうしたように、李承晩は北朝鮮の攻撃で陥落の危機に陥った首都ソウルから一番最初に逃げた人だった。 戦争が勃発すれば、昼は平壌(ピョンヤン)で、夜は新義州(シンウィジュ)で食べるという豪語とは異なり、国軍は為す術が無かった。 27日午前1時に招集された非常閣僚会議では、ソウル市民の避難に関する計画は立てず、水原(スウォン)遷都を決めた。 午前3時、国軍統帥権者 李承晩は、景武台(大統領官邸)を後にし、避難の道に上がった。 李承晩を乗せた特別列車は水原に停まらなかった。 午前5時に大田(テジョン)を通過し、午前10時に大邱(テグ)に到着した。 誰かが「k閣下、とても遠くに来ました」と進言したが、その通りだ。平壌(ピョンヤン)ではなく大邱(テグ)で昼食を済まされた李承晩は、汽車を回して大田に戻った。 そしてその日の夕方、長距離電話でソウルの中央放送局と連結し「国連が私たちを助けて戦うことになったので、国民は安心しなさい」という内容の放送を録音した。 KBSはこの放送を人民軍がソウルを占領するまで放送し続けたという。 李承晩は放送で自身が大田に下って来ている事実を告白しなかったため、多くの市民たちは彼が自分たちと共にソウルに留まっていると勘違いした。

 放送だけではなかった。 新聞も誤った情報を吐き出していた。6月27日付<東亜日報>は「国軍精鋭北上、総反撃戦展開」というタイトルで国軍が海州市(ヘジュシ)を完全に占領したと報道し、同日<京郷新聞>も「味方の勇戦」に傀儡軍が全戦線で敗走中とし、国軍が海州市に突入したと言い、6月28日付<朝鮮日報>は「国軍が議政府(ウィジョンブ)を奪還」したと書いた。

 言論が市民に誤った情報を送り続けている時、李承晩は漢江(ハンガン)橋の爆破を準備していた。 6月28日午前2時30分頃、総参謀長チェ・ビョンドク一行が漢江歩道橋を通過した直後、陸軍工兵監大佐チェ・チャンシクは漢江橋の爆破を命令した。 市民に安心して生業に従事しろと言っておきながら、自分たちだけが抜け出た後に橋を落としてしまったことも真に問題だが、本当に許されないことは、爆破当時に漢江橋には避難民が多数いたという点だ。 阿鼻叫喚、橋の上に何人いたかは分からず、死体を収容したわけでもないので、いったい何人が無念の死に至ったのかは分からないが、関係者たちは少なくて500人、多くて1500人が命を失ったと推定している。

 戦争が勃発した時、大統領が避難することはありうる。 スターリンのようにモスクワの目の前まで進出したドイツ軍の砲声の中で、クレムリン宮殿に堂々と座ってモスクワ防御戦闘を指揮することが必ずしもできないこともある。 大統領が避難する場合、百万を越えるソウル市民全員と一緒に避難することは当然不可能なので、知らせることができずに抜け出なければならない困窮した状況に至ることもありうるとしよう。 背水の陣を敷いて、壮烈に戦死するのでなければ急いで逃げて橋を落とすこともありうるとしよう。 しかし橋を落とすにしても、法度があり捨てられたソウル市民にまた会う時にも礼儀がある筈だ。 獣ではなく人間ならば。

1950年6月27日付<東亜日報>と<京郷新聞>、28日付<朝鮮日報> 1面。 ハン・ホング教授提供

1950年6月27日付<東亜日報>と<京郷新聞>、28日付<朝鮮日報> 1面。 ハン・ホング教授提供

チェ・チャンシクとチェ・ビョンドク-李承晩の犠牲の羊たち

 9月15日未明、仁川(インチョン)上陸作戦が成功し、ソウル奪還が迫るや李承晩政府内部では、還都後にどのようにソウル市民と対面するかという問題が提起されざるをえなかった。 李承晩政権は犠牲の羊を探した。橋爆破の現場責任者であった29才の若き大佐チェ・チャンシクだった。 仁川上陸作戦が敢行されたまさにその日、臨時首都であった釜山(プサン)で開かれた戒厳高等軍法会議は、チェ・チャンシクに国防警備法27条の‘敵前非行罪’を適用し死刑を宣告した。 チェ・チャンシクは、自身は命令に従っただけだと抗弁したが効果がなかった。 当時判決文は、チェ・チャンシクの漢江橋爆破で莫大な車両と軍人が墜落し、無事な車両装備および軍需物資が敵に捕獲され、数万の兵力が渡江できない混乱が発生したとし、すべての責任をチェ・チャンシクに押しつけた。 9月21日チェ・チャンシクは釜山郊外で処刑された。

 漢江橋爆破と関連したまた別の重要人物である陸軍総参謀長チェ・ビョンドクも、チェ・チャンシクに先立ち不審な死を遂げていた。 チェ・ビョンドクは戦争勃発直後である6月30日、初期敗戦の責任を負って総参謀長職を解任され‘慶南(キョンナム)地区編成軍司令官’に押し出された。 チェ・ビョンドクは7月24日、国防長官シン・ソンモから一通の手紙を受け取った。 その内容は、貴下はソウルを失い重大な敗戦に遭い責任が非常に重いが、今敵が全南(チョンナム)から慶南(キョンナム)に向かっているので、この敵の侵攻を阻むために先頭に立って督戦せよということだった。 言い替えれば、死をもって敗戦の責任を取れということだった。 この手紙を受け取った3日後、チェ・ビョンドクは‘戦死’したと発表された。

 彼の死を巡ってあらゆるうわさが乱舞するが、英米圏で朝鮮戦争に関する古典的な大衆書であるフェーレンバッハ<このような戦争>によれば、チェ・ビョンドクは7月27日河東峠(ハドンコゲ)で米軍服を着た一群の軍人とぶつかったと言う。 チェ・ビョンドクが「どこの部隊か?」と言うと、彼らはチェ・ビョンドクに向けて銃弾を浴びせた。 チェ・ビョンドクの副官は図体の大きいチェ・ビョンドクの死体をかろうじて引きずって車に乗せた。 チェ・ビョンドクの後に総参謀部長になったチョン・イルグォンの回顧録によれば、内務長官チョ・ビョンオクは「チェ・ビョンドク将軍が実に惜しまれて戦死したが、裏話がいろいろ多い」のは、彼が敵の戦車がミアリ入り口まで来ても「心配ない、心配ない」と言って「多くのソウル市民を生き地獄に閉じ込めて」見捨てたためだと話したという。 漢江橋現場の工兵監チェ・チャンシクと国防長官シン・ソンモを経て李承晩につながる漢江橋爆破の命令体系の中間の環はこのようにしてその時、断たれてしまった。

偉大なる者、汝の名は‘南下’した愛国者

 ソウル市民を欺いて橋を爆破して逃げた李承晩は、ソウルに帰ってくる時ソウル市民に頭を下げて謝っただろうか? セウォル号事件後、朴槿恵(パク・クネ)大統領はたとえ嫌々ながらであっても遺族と市民たちの荒々しい怒りに勝てず何度か謝罪した。 しかし李承晩はびくともしなかった。 橋を落として逃げた直後、李承晩についてきた申翼熙(シン・イクヒ)、張澤相(チャン・テクサン)、曺奉岩(チョ・ボンアム)など国会議長団は忠南(チュンナム)道知事官邸に留まっていた李承晩を訪ねて行き、対国民謝罪文を発表することを薦めた。 すると李承晩は腕を広げる仕草をして「俺が唐德宗か?」として一言で謝罪を拒否したという。 唐德宗は反乱を鎮圧した後、国民が乱に巻きこまれたのは自身の間違いのためだとして謝ったことがある。 李承晩に代わって謝ったのは、戦争勃発以後、各種の放送に対する責任を負った国防部政訓局長イ・ソングンだった。 橋を落として偽りの放送をして逃げたことが、一介の局長の謝罪で終わることなのか。

 川を渡って逃げて帰ってきた‘渡江派’がソウルに残らなければならなかった‘残留派’に返したのは、謝罪でも慰労でもなく「情実と寛容と脱落が絶対にありえない」という恐怖の‘反逆者処罰’だった。 しかし、仁川(インチョン)上陸からソウル奪還までほとんど2週間かかったのに、厳重処罰を受けなければならない反逆者が相変らずソウルに残っているはずもなかった。 本当に反逆者と呼ばれるだけのことはあった者は後退する人民軍について北に上がったし、残っている人々と言えば、銃を持った者がやって来て荷物を運べと入れて荷物を運び、集会に出てきて万歳を叫べと言われて万歳を叫んだそのような人々だった。 戦争当時ソウルに残ったソウル大学校史学科教授キム・ソンチルは日記で「悪い奴らは自分なりに思い当たることがあるので、それまでに皆逃亡」してしまい「私は悪いことはしなかったので私は別に」と安心していた人々だけが捕えられて散々な目に遭ったと書いた。

 反逆者に対する処罰は、一部の極右勢力には途方もない財産蓄積の機会でもあった。 どれ程ならばソウル収復3週にもならずに戒厳司令官や憲兵司令官が反逆者処罰を口実に殺人と拷問を行い、財産を略奪して婦女子を強奪する悪質無礼な輩を徹底的に掃討するという談話を発表しただろうか。 「全くでたらめな事実で善良な市民を悪質反逆者にでっち上げ、これを処断させることによって彼らの家産その他の金品を奪取しようとする部類」がとても多かったためだ。 政府はこれを‘一部青年団体’の幹部と構成員の逸脱だと言い張ったが、悪いことをしたのは彼らだけではなかった。 外信はこのような蛮行が警察と軍によって強行されているという事実を連日報道した。

…とても遠くに逃げた閣下

 キム・ソンチルは日記でこのように書いた。 「愚かでまぬけな多くの市民(ソウル市民の99%以上)は、政府の言うことだけを聞いて、職場をあるいは家庭を‘死守’して、突然に敵軍を迎えて90日間を飢えて蔑まれ昼夜別なく生命の威嚇に震えて、天の恵みで命を持ちこたえ、涙と感激で国軍と国連(UN)軍のソウル入城を迎えると、驚いたことに多くの‘南下’した愛国者の号令が非常に厳しく‘政府について南下した我々だけが愛国者で、陥没地区にそのまま残っていたお前たちは皆が不純分子だ’として、困迫が甚だしく古今東西これほどくやしい事情がまたとあるだろうか!」キム・ソンチルはその日の日記を「偉大なる者、何時の名は‘南下’する愛国者だ」という嘆きで終えた。 これは居直りの極限状態であった。 橋を爆破して逃げた者が帰ってきて、残った人々をアカだと脅すことが、どうして理念の問題になるのか。 それは礼儀の問題に過ぎない。

 転向者らの団体である保導連盟を管理した代表的な公安検事チョン・ヒテクもやはり避難できずにソウルに隠れていなければならなかった。 彼は人民軍に捕えられれば生き残ることはできない立場だったので、トンネルを掘って拳銃をからだに携え77日間にわたりうずくまっていたと言う。 かろうじて生き残った彼は、政府が還都するや杖をついて法務長官イ・ウイクに挨拶に行った。 長官が生きて戻ってきたチョン・ヒテクを見るやいなや言った言葉が「これから残留派に対しては付逆の如何を問わずに捜査して、裁判に回付する」とのことだった。 チョン・ヒテクは怒りをこらえられず、杖で長官の机を打ち下ろし「首都を死守すると嘘をついて、愛国市民を遺棄して逃げた者は誰なのか。 あなた方こそ漢江(ハンガン)の南側川岸で残留市民に謝り、許可を得た後に入って来るべきだった」と叫んだという。 李承晩の偽りの録音放送に先立ち、ソウル死守を訴える即興詩を生放送で放送した毛允淑(モ・ユンスク)も避難できなかった。 毛允淑は9月30日に景武台に行き、李承晩に会うと怒りが胸に込み上げて、ネクタイを掴み、ぶらさがるようにして「おじいさん、私をこき使って終盤には放送もさせて、一人だけ生き残るために避難したんですか?」と喚いたと言う。 このように大統領のネクタイにぶらさがって、長官の机を杖で打ち下ろせたのは、彼らが当代最高の右翼要人だったからだ。 どっちつかずの人には苛酷な処罰が待っていた。

李承晩大統領(前列左端)が1952年7月、巨済島(コジェド)の捕虜収容所を訪問して反共捕虜の歓迎を受けている。 <大韓民国政府記録写真集>

 ソウル市民を騙して橋を爆破して逃げた李承晩はソウルに帰って来た時、ソウル市民に頭を下げて謝っただろうか? 李承晩はびくともしなかった。 川を渡って逃げて、帰ってきた‘渡江派’がソウルに残らなければならなかった‘残留派’に返したことは謝罪でも慰労でもなく、恐怖の‘反逆者処罰’だった。

前列死刑、後列無期

 橋を爆破して逃げて、意気揚々と帰ってきた者にとって、いったい何人が命を失ったのかは知る術がない。 法務部が国会に提出した資料によれば、政府樹立以後最後の死刑が執行された1997年までに死刑になった人は軍関連事件120人を含め計919人とされている。 おそらく大韓民国政府が提示する統計の中で最もでたらめ統計であろう。 この資料で韓国戦争以前と戦争期間中の統計は全く信じられない。 反逆者処罰過程では9・28ソウル収復から1・4後退までの中間ぐらいに当たる1950年11月25日付の東亜日報記事に、死刑が宣告された反逆者が867人で、この内すでに死刑が執行された人は161人に達するとされている。 <釜山(プサン)日報> 1950年11月27日付には、11月24日に322人の共産党協力者に対する刑の執行があったとされている。 1950年12月11日、駐韓米国大使館の‘韓国政府の反逆者処理に関する報告’によれば、11月8日までに合同捜査本部に逮捕された1万7721人の内、民間法廷で死刑が宣告された人は353人、戒厳軍法裁判で死刑が宣告された人は713人、中央高等軍法会議で死刑が宣告された人は232人だった。 どれ程ならば「前列死刑、後列無期」という言葉までが出てきたのだろうか。

 韓国軍の‘残忍で犯罪的’な処刑場面を見過ごせなかった英国軍が、死刑の執行を中断させるなど李承晩政権の無慈悲な死刑執行は外交問題にも飛び火した。 パク・ワンソが嘆いたように「親日派の首脳にはあれほどよく参酌した、それこそ聖恩が河海のようだった政府が、付逆にはそこまで厳重になるとは」だった。 日帝が苛酷だったと言っても、日帝36年間で死刑になった独立活動家数は、僅か3ヶ月間の人民軍占領期間に付逆したという理由で命を失った市民の数には遥かに至らない。 <韓国警察史>第2巻によれば、人民軍治下3ヶ月間にわたる反逆者中、検挙15万3825人、自首39万7090人で、合計55万915人の反逆者が処理された。 彼等とその家族はいつまでも連座制のくびきから抜け出せなかった。

 良心がない者は、巨利を得られる機会と感じて反逆者処罰に熱を上げたが、最小限の良心でも持つ人ならば誰が誰に石を投げられるかを悩まざるを得なかった。 当時ソウル地方裁判所判事として反逆者処罰裁判を担当せざるを得なかったユ・ビョンジンは李承晩政権が倒れた後に刊行した<裁判官の悩み>という著書で、反逆者裁判の問題点を生々しく指摘した。 少し長いがユ・ビョンジンの悩みを聞いてみよう。 「私たちはソウル市民に対して、なぜソウルから後退しなかったのかと、これを問責するべきか? ……平市民はさておき、また中間派巨頭についても政府の長次官級の数人と道知事まで、いやそれ以上に右翼要員の大部分までが脱出できなかったではないか! ……すると、脱出の機会さえ与えなかった者は一体誰だったのか! ……ひとまず進撃の命令さえ下せば、1週間以内に鴨緑江(アムノッカン)まで、いや白頭山(ペクトゥサン)にさえ太極旗が翻ると言っていた軍部の豪語を鵜呑みにしていた市民にとって、27日夜の大統領特別放送は一層真実として聞こえるほかはなかったのだ。 ……そうして見るならば、ソウル市民の残留は政府がさせたことではないか? 結論がこれに至るので、痛々しい事情に相違ない。」

 裁判が進むに連れて婦女子が連れて来られるケースがどんどん増えた。 その罪目は、女性同盟幹部として「人民軍に提供するためにテンジャン(味噌)コチュジャン(唐辛子味噌)あるいは、真鍮の茶碗などを収集し提供したということ」だ。 日帝末期に日本が戦争物資が不足すると、家々を捜索して真鍮の器を持ち去ったというのは良く知られた事実だ。 日帝と戦った米軍が、韓半島の南側を占領した後に日帝に真鍮の器を捧げたとか日本軍に出て行ったからと処罰したことはなかった。 人民軍も南側を占領した後、李承晩政権に税金を捧げたからと人々を苛めることはなかった。 真に耐え難い毎日だった。

 先日、韓国放送(KBS)で‘韓国の遺産’という公益広告で、大韓のジャンヌ・ダルクと呼ばれて「独立闘士の飢えた腹を満たした臨時政府の永遠の安息所、そのオモニ(お母さん)を記憶します」と紹介された鄭靖和(チョン・ジョンファ)も付逆罪の処罰を避けられなかった。 かつて臨時政府時期に親しくした人が北に行き、戦争の時に降りて来た時に会った罪だった。 独立運動時期に捕えられたことがあった鍾路(チョンノ)警察署に鄭靖和は解放された筈の祖国で再び逮捕された。

‘安義士’の後えいども

 臨時政府のオモニをはじめとする多くの反逆者処罰の先頭に立った人は果たして誰だったのだろうか? それは冷戦と分断の隙間で、親日派民族反逆者から愛国的反共闘士に華麗に変身した金昌龍(キム・チャンニョン)、元容德(ウォン・ヨンドク)、盧德述(ノ・ドクスル)のような者だった。 関東軍憲兵補助出身で李承晩時期の特務部隊長(保安司令官)に出世した金昌龍は、麗水(ヨス)順天(スンチョン)事件直後の粛軍事業で、南朝鮮労働党(南労党)偽装活動家として摘発された朴正熙を捜査した張本人だが、同じ満州出身という理由で元容德、白善燁(ペク・ソンヨプ)、丁一權(チョン・イルクォン)らと共に朴正熙を助けた者でもある。 ソウル収復後、軍検警合同捜査本部の本部長として強大な権力を行使した金昌龍は、李承晩の最側近として数多くの公安事件をでっち上げた。 金昌龍の手を経た公安事件の内で最も重要なのは白凡 金九(キム・グ)先生の暗殺事件だ。 安斗煕(アン・ドヒ)によれば、金昌龍は安斗煕が白凡を暗殺するや安斗煕に「安義士、ご苦労さん」と誉めたという。 彼等の世界で‘安義士’とは、安重根義士ではなく白凡殺害犯の安斗煕であった。 金昌龍が朴正熙と前後に並んで撮った写真や、金昌龍が白善燁、李厚洛(イ・フラク)らと互いに肩を組んで撮った写真は、韓国公安権力のルーツがどんなものなのかを象徴的に見せている。

 1950年代後半公安のねつ造事件の代表的な犠牲者は曺奉岩(チョ・ボンアム)だった。 大韓民国政府の初代農林長官として農地改革を主導し、1952年と1956年に大統領選挙で2回連続で2位を占めた大物政治家 曺奉岩は、1960年の大統領選挙で李承晩を最も脅かす人物に選ばれていた。 曺奉岩が投票で勝って開票で負けたという1956年の大統領選挙で掲げたスローガンは‘平和統一’と‘被害大衆のための政治’であった。 被害大衆とは誰のことだろうか。 それこそ民間人虐殺被害者たちであり、無念に反逆者にされ処罰を受けた人々だった。 李承晩政権は曺奉岩にスパイというとんでもない汚名を着せて彼を殺した後、安らかに1960年の大統領選挙を行おうとした。 しかし1958年7月2日、ソウル地裁で開かれた進歩党事件1審宣告公判で死刑を求刑された曺奉岩は、予想を裏切りスパイ罪の部分は無罪で、国家保安法違反だけを有罪と認定し懲役5年の刑を宣告された。 裁判長はユ・ビョンジン、反逆者処罰の不当性を深く悩んだまさにその判事であった。

韓洪九(ハン・ホング)教授

公安権力とマフィアども

 7月5日、裁判所には反共青年を自任する300人余が押しかけて「アカの判事ユ・ビョンジンを打倒しよう」、「殺せ」等のスローガンを叫んで暴れまわった。 この反共青年らも一日で作られたものではなかった。 彼等は日帝が育てた軍国少年たちだった。 実際、日本では敗戦後に米軍が軍国少年の頭の中から軍国主義の水を抜く作業を始めたが、分断された韓国で米軍はそのようなジェスチャーを取らなかった。 戦争が勃発するや軍国少年は軍人になって戦争をしたし、戦争が終わった後には反共青年になって「アカ判事を打倒せよ」と叫びながら裁判所に乱入した。 朴正熙時期、彼等は郷土予備軍になって「仕事をして戦い、戦って仕事をしよう」、「戦って建設しよう」等と叫んで兵営国家の建設と維新課題実行の先頭に立った。 彼らは安らかな老後を送れなかった。 アカの金大中、アカの盧武鉉が大統領になった国で‘ガスタンク爺さん’、‘愛国爺さん’になった1950年代の反共青年世代は、最近でもPD手帳無罪、ミネルバ無罪、カン・キガプ無罪、ハン・ミョンスク無罪のような判決を吐き出す裁判所を訪ねて行っては「アカ判事を打倒しよう」と叫んで八十路の青春を燃やしている。 <次回に続く>

韓洪九(ハン・ホング)聖公会(ソンゴンフェ)大教養学部教授

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/638958.html 韓国語原文入力:2014/05/26 08:39
訳J.S(10005字)

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