原文入力:2012/04/29 22:13(6667字)
[チョ・グクが出会った人] ‘チョン・テイルの妹’ チョン・スンオク19代国会議員
チョン・スンオク‘本当に素晴らしい服’代表。7-80年代、残酷だった労働現実を打開するため命をかけて闘争した人、英国留学で博士学位を受けても‘ミシン工’として帰ってきた人、新自由主義的思考と政策がすべての社会を貫徹していく中で、楽しく仕事が出来る衣類工場を作り運営した後、政治に第一歩を踏み出した人にメーデーを前にした4月27日に会った。 ‘歌を探す人’の<四季>、 "ミシンは回るよ、よく回る…" を繰り返し口ずさみながら。 チョ・グク ソウル大法学専門大学院教授、ツイッター@patriamea
-1970年11月13日チョン・テイル烈士が焼身して叫んだスローガンの一つが‘勤労基準法遵守せよ’であった。 劣悪な労働現実を打開するために奮闘して勤労基準法を発見してとてもうれしかったのだろう。 そのうちにこの法律が有名無実な存在であることを知って絶望する。 ‘資本はもちろん国家も私を騙したんだな’として嘆いたようだ。
"もし勤労基準法がなかったなら、兄はその法を作るためにも死なずに闘争したかもしれない。"
-労働関連法も昔よりは良くなった。 しかし依然として法は労働者にとって鎖である場合が多い。 今度は国会議員になられたので、法を作って、変えて、不法と違法を監視する権限を4年間持つことになった。 ところでセヌリ党非常対策委員であるチョ・トンソン教授も訪ねてきて招聘提案をしたと理解しているが。
"‘歴史的に見た時、私はセヌリ党を受け入れない’と話して簡単に断った。"
-統合進歩党側から提案はあったか?
"なかった"
←チョン・スンオク民主統合党国会議員当選者とチョ・グク教授とともに27日午後ソウル、清渓川(チョンゲチョン)6街のチョン・テイル橋に設置された‘チョン・テイル烈士銅像’前で話している。 キム・テヒョン記者 xogud555@hani.co.kr
チョン・テイル、イ・ソソンに関する記憶
兄はとてもおもしろい人 スポーツ中継でもするように話がうまい
母イ・ソソン 苦しい暮らしでも‘私は幸せ’と言って無限の愛を与えた
-辛い記憶かもしれないが兄さんが焼身する当時は16才でした?
"高等公民学校という一種の夜間中学校に通っていた。 昼間は兄と一緒に工場で‘シタ’(補助職)仕事をした。 あまりにしんどかった。 そうするうちにミシン職でなく他の仕事をしたいと思って鍾路(チョンノ)4街の団成社劇場の下で10人程度が洋服を作る工場に移った。 焼身当時はそこで仕事をしていた。"
-兄さんが焼身した後、公安当局が大金を持って訪ねてきたと言うが。
"霊安室の弔意金を出す所に大きな空色のカバンが置かれていた。 初めはそれが何だか分からなかったが、母が下の兄さんと私、弟(妹)に来いと言って‘あのカバンの中にとても多くのお金がある。 あの金を受け取ればお前たちが工場に通わずに学校に通える’と言った。 ‘受けとらなければどうなるんですか?’と私が尋ねると、母が‘受けとらなければ兄さんの遺志に従わなければならない。 家族皆が工場に通って暮らさなければならない’と言われた。 当時、兄さんの遺志がどういうことか正確には分からなかった。ところで部屋を掃除したら兄の日記帳が出てきた。 その日記を見た日とてもたくさん泣きましたよ。 自分が腹が空かせて生きた話、平和市場で苦労している子供たちの話などが思い出され兄の遺志はこれなんだという気がした。 それで‘オンマ(母さん)、金を受け取るのはやめよう。 工場にずっと通う’と答えた。"
-その金カバンはどうしたのか?
"母が霊安室に戻って‘こんな金は必要ない。お前たちが持っていけ’と叫んで金カバンの中の金を取り出して床にばら撒いた。 労働庁長、中部警察署警察官、平和市場代表、背広を着た男たちが一つ一つ拾っていました。 以後オンマは兄の意を受け継いだ。"
-事実‘チョン・テイル精神’は‘チョン・テイル-イ・ソソン精神’ではないか。 故イ・ソソン女史の人生の中でチョン・テイルはいつも生きていたしその精神は拡散、深化された。
"兄が巨大な壁に小さい針穴を穿ったとすれば、母は全身でその穴を大きくするために40年を生きた。 母は労働者が闘争する所に全て行かれた。 24時間ぶっ通しで安全企画部や警察情報課刑事の査察と尾行があった。 私は子供と人間に対する無限の信頼と愛を示したオンマが本当にありがたい。 常に苦しい暮らしでも‘私は幸せな母親で、幸せなおばあさん’と話していた。母は‘人を愛すれば何でもしてあげたくなるじゃない’と言って、愛が一番大切だと言った。 運動も政治もそうみたいだ。"
-16才の少女として兄さんに対する特別な記憶は?
"兄はとてもおもしろい人でした。近頃の基準で見ればほとんどコメディアンのようだった。(笑)例えば、‘ネズミ一匹が南大門(ナムデムン)地下道ではなく横断歩道を渡っていきます。そしてこのネズミは…’、こういう話をアナウンサーがスポーツ中継でもするようにおもしろく上手に話した。(笑)踊りも上手かったし。 私の友人が兄の話を聞くことがとても好きだった。 ふとんの下に足を入れて、兄さんの話を聞いてうれしがった。 ところが兄はおもしろい話で始めて、終わりには悲しい話をした。"
-当時、清渓労組は労働運動の先鋒であったし、チョン・スンオク代表はその核心として猛烈に闘争した。1987年全国的に労働者大闘争が起きるまでは何をしたか。
"1971年以後、色々な工場で仕事をし続けていた。77年に母が拘束され差し入れをするために工場には通えなかった。 1978年東一紡織事件支援闘争をして逮捕され警察署に2週間収監された。 正式裁判はもちろん即決裁判もなしに。(東一紡織事件は)会社側が労組活動をした女性労働者の顔に糞便を塗りたくり、からだに糞尿を浴びせて暴行した野蛮な事件だった。 87年6月抗争が勃発し明洞聖堂で断食闘争が行われたが、その現場にいた。 その後、労働者大闘争が起き全国の現場を訪問した。これで労働者の世の中が到来するだろうと考えた。"
労働運動そして英国留学
搾取される労働者の現実に苦悩し
89年に英国留学、労使関係を勉強して
帰国してみると労働者はさらに悲惨
‘壁’に対抗したキム・ジンスクに会ってみたい
-ところで89年に英国留学に出た。その理由と背景は?
"88年11月、日本全国労働者評議会の招請で日本を訪問して労働組合支部をほとんど全て訪問した。ところで40代の労働者が私を訪ねてきて告白することがあると言った。60年代に幼かりし時に工場で仕事をしたが、工場が韓国に移ったために解雇されるや韓国の労働者は低賃金を維持するバカだと猛非難したということだ。以後、韓国の労働者のあやまちではなく、企業資本の問題だということを悟ったが…。89年4月、ドイツ金属労連の招請でドイツに行ったが、そこでも同じ話を聞いた。 強い衝撃だった。‘もう韓国だけで戦っていても労働者の世の中が来はしないんだな、これからどうすれば良いのだろう’と悩んだ。"
-学費はどのように調達したのか?
"城南(ソンナム)メリノル修道院所属の修道女が英国のカトリック団体を紹介してくれた。 その団体の斡旋で英国人の家で清掃や洗濯をしながら一日3ポンドを稼いで英語学院に6ヶ月通った。以後、ロンドンのサウスバンクという後に大学になったところの夜間プログラムに登録して英国労働運動史を2年間勉強した。生涯学習機関だということでお金は一銭も払わなかった。 帰国しようとしたが、その学校で勉強した先輩がオックスフォード ラスキンカレッジの話をした。 世界の多くの国の労働者も来て勉強していると言った。 カトリック団体とドイツのMlssereorに奨学金申請をしたところ、2年奨学金を受けられた。 ムン・ジョンヒョン神父が推薦辞を書いて下さった。 ラスキンカレッジで労働社会学と労使関係を勉強し二つのディプロマ(資格取得証明)を取得した。すると指導教授がもう少し勉強してから帰国するように勧めてくれ、奨学金も斡旋してくれた。それでウォーリック大へ行って修士と博士を取得した。"
-ウォーリック大博士論文<彼らは機械ではない>は2001年ウォーリック大最優秀論文に選ばれた。チョン代表が勉強できたのは宗教団体と労働団体の国際連帯のおかげだったようだ。自国はもちろん外国の労働者まで勉強させて労働を社会と政治の中心にならさせようとする努力、そして労働者のための各種高等教育体制がうらやましい。
"直接関連することではないけれど、2つの例を挙げたい。韓国の大学修学能力検定に該当するものとして英国にはAレベル試験がある。この試験を受ける日、地下鉄労組がストライキに入った。 韓国なら‘受験生を人質にした集団利己主義’云々して罵倒しただろうが、そうではなかった。 また、リバプールで消防署員労組がストライキをする期間中に火事が起こって子供たちが死んだ。 ところがマスコミは消防署員の仕事がどれほど重要かを論じながら消防署員の待遇を良くしてあげないから子供たちが死んだではないかという要旨の記事を載せた。"
労働解放 労働者から政治家へ
チョン・テイル精神は人間愛
国会で資本の論理を阻み
貧しい人の前に立ちふさがる高い塀を
なんとかして薄く低くさせる
-労働と労働者を単に費用や消耗品と考える社会では想像できない反応だ。2001年4月に帰国して大学へ行かずに、なぜ昌信洞(チャンシンドン)に戻って‘シタ’仕事ををまたしたのか?
"帰国してみると民主労総も韓国労総も作られていた。87年以前に比較すれば労働組合の力も、労働者の声も大きくなった。 ところが平和市場で仕事をする労働者は労組もなく仕事をしていた。 清渓労組もなくなっていた。 一日13~14時間、土曜日まで仕事をしていた。 いったいなぜこうなるのかという疑問を解くために昌信洞に席を占めた。89年に留学する前にジャンパー一枚が4800~5000ウォンであったのに、帰国すると価格が3000ウォンに下がっていた。 韓国企業はみな廃業してしまった。 現在ここの労働者は中国とか更に安い労働力を持つ国の労働者との競争状態に置かれている。 社長が‘韓国では賃金が高くて商売できない。中国に工場を移す’と話す状況で、労働者は社長が決める賃金で黙って働くほかはないということだ。"
-釜山韓進重工業85号クレーンで籠城闘争をしたキム・ジンスク指導委員の悩みとも繋がっている。 製造業が外国へ行けば一生その仕事に従事した労働者は働き口がなくなる。 韓国労働運動の危機であり韓国経済の新たな発展戦略が必要な時期だ。 帰国後、労働運動に対する批判をたくさんした。
"組織化された労働運動に包括されえなかった労働者はさらに凄惨だった。このような労働者の80~90%は女性だ。 当時、民主労総は大企業中心の労働組合組織に集中した。 民主労総に行って‘これでは英国のように労働運動が滅びる。下へ降りて行かなければならない。 労働組合組織を持って組織に入らない労働者を代弁してこそ労働運動が生きる’と話した。 移住労働者も同じだ。 彼らの権益を私たち労働者が守らなければ、私たちがそうなる。非正規職と正規職の関係もそうだ。 しかしこのような私の主張は受け入れられなかった。"
-キム・ジンスク氏に会ってみたか?
"まだ会っていない。クレーンにいる時は母が病院に入院していて行けなかった。 必ず会ってみたい。"
-労働運動の先後輩としてする話が多くなった。今度は‘本当に素晴らしい服’の話をしてみよう。
"初めは労働者の技術を高級化して高付加価値の服を作ろうといって技術教育学校を始めた。 3年やったが高級化された技術を持っても就職する所はなかった。 その時<チョン・テイル評伝>の模範企業体を思い出した。 ジョン・ルイス パートナーシップという英国の会社も思い出した。 資本主義市場競争力を備えながらも会社内の分配は社会主義的にする企業だ。 労働を投資しようが資本を投資しようが、利潤分配は同等にする。 6万9000人が仕事をしているが非正規職が一人もいなくて全員が株主だ。このような会社を一度作ってみようとすぐに決心した。"
-労働運動の究極的目標として労働の解放を語ってきた。 今の時点で労働解放とは何であると見るか?
"労働の解放は労働をしないのではなく楽しく主人として労働をすることだ。 ‘本当の素晴らしい服’という名前は、作って楽しく、着て楽しい服という意味だ。 私が労働しているのか、労働が私にさせているのか分からない状況が続いている。 私は‘3D’、すなわち、きつくて(difficult)汚くて(dirty)危険な(dangerous)労働を‘3L’すなわち、学び(learning)自由になり(liberating)人生を変える(life-changing)労働に変えなければなければならないと主張している。 仕事をして楽しければ人間として一番幸せなことだ。 労働しながら不幸ならば人間としての楽しみがなくなり機械になる。"
-社会的企業の運営は容易ではなかったと思うが。
"僅かだが希望が見える。社会的企業も労働組合と連帯してこそ成功すると思う。 例えばユニフォーム市場を見てみよう。 4兆ウォンほどの市場だ。 大企業労組や公企業労組で服を選択する時、どんな服を選べば働き口が増えるかを考えなければならない。 それが間接連帯であり社会連帯だ。 2005年米国の8ヶ大学を訪問した時、講演に来た労働者と教授が自身が着た服についた‘ユニオン メード’と書かれた表示タグを誇らしげに見せましたよ。2008年に会社を作って2009年に全公務員労組ジャンパー1000枚の注文を受け13万5000ウォンで高級感を出した。 2010年1月に全公務員労組が政治後援支援金を出したと押収捜索に遭って、私たちの職員が心配しました。以前は自身が労働者でありデモやストライキは嫌いだったけど、今は‘その人々が捕えられれば私たちの仕事なくなる’と考えたのでしょう。 ところで財閥が服市場を蚕食しようと入ってくる。 ロッテが‘ZARA’や‘ユニクロ’を持ってきた。東大門(トンデムン)にもロッテが建物を買ったそうです。 今後こちらの小さな服製造業者が致命的打撃を受けるでしょう。 無慈悲な拡張で企業の生態系がみな破壊されている。"
-経済協力開発機構(OECD)会員国中で韓国ほど独占資本の無限独走を許容している国はない。 この頃、財閥は‘タコ足’ではなく‘ムカデ足’だ。 政治を選んだ理由がここにあるようだ。 過去には大統領府労働秘書官、国家人権委常任委員の席はみな断ったのに…
"帰国後11年間、ここで私ができることはすべてやってきた。ここの人々は眺められる人が私しかいないのかも知れない。現在、チョン・スンオクとしてはできないことがあることを確認した。 労働者の権益を保護して連帯を強化して製造業を生かして企業生態系を正常化するには、政治に入って法と制度を変えなければならないと判断した。 貧しくて無力な人々の前に高くて厚い塀が立ちはだかっている。 どうにかしてこの塀を薄く低くさせようと思う。"
-チョン・テイル精神を実現する政治家になることを祈る。
"チョン・テイル精神は人間に対する愛だ。労働者が人間らしく生きられるように世の中を変えることだ。 国会に入って資本の論理だけが大手を振るうことを阻みたい。兄と母に続き、私の役割と天命をすべて尽くす。"
整理/キム・ウェヒョン記者 oscar@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/530441.html 訳J.S