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[朴露子ハンギョレブログより] 殺人の喜悦: 帝国、法、そして殺人

http://www.washingtonpost.com/national/when-does-satisfaction-become-gloating-some-americans-uneasy-with-bin-laden-celebrations/2011/05/04/AFJm0frF_story.html

原文入力:2011/05/06午前02:07(3773字)
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学


漢王朝を見てもローマ帝国を見ても現在のアメリカ帝国を見ても、帝国は大概 大量殺人で成り立っています。今、英語とドル、ランボーとバットマンが無数の世界人の言語生活や財布、そして感覚生活を支配しえている根底には、アメリカ・インディアンを始め、今日のアフガン人、リビア人に至るまで、刀と鉄砲、機関銃、大砲、ミサイル、絨毯爆撃と原子爆弾により無惨に殺害された数千万人のフィリピン人、アラブ人、韓国人、日本人、黒人等々の数え切れないほどの被害者たちの血が流されているのです。帝国の成立と維持は絶え間のないホロコーストを必須条件としているため、帝国の支配者たちやその支配者たちの心性と思考をそのまま内面化した数多くの「順良なる国民」たちは殺人を理論的に肯定するのみならず、感性的にも楽しむようになります。人間の頭蓋骨を砕く銃弾から人間の全身をあっという間に木っ端微塵にしてしまう無人爆撃機まで、それらの存在がなければ、彼らは今のような位置には絶対にありえないことを熟知しているからです。殺人を楽しむという点においてはアメリカ帝国は必ずしも先駆者ではありません。剣闘士たちが剣で斬り合い、ついに強者が弱者を倒し、その心臓に剣を突き刺す瞬間にオルガズムを感じたかのように観覧席で一斉に喜悦に満ちた大歓声を上げたりしたローマ人たちを思い浮かべてみましょう。剣で身を立てた彼らは、人体を貫通する剣を死ではなく生の象徴のように感じたでしょう。これと類似した例はアメリカの初期史において見受けられます。たとえば、西部で特に「有害な」(すなわち独立心と抵抗性の強い)インディアン酋長の射殺は大きな祝祭につながったりしました。太平洋戦争時代に多くの米軍兵士らは「敵軍」の骸骨などを記念品(?)として蒐集し、恋人や親に贈ったりしました。ベトナム戦争が終わった後は、「殺人の喜び」がただアクション映画の鑑賞や戦争ゲームをするレベルで、すなわち間接的で二次的な方法で表出される、若干「文明的な」時代がようやく渡来したかと思いました。ところが、ビンラディンの射殺で触発されたアメリカにおける「お祭り騒ぎ」(この雰囲気は一部のアメリカ人観察者にさえも奇怪に映るほどです: )を見ると、帝国らしい「殺人の喜悦」がまったく消えていなかったことがすぐに分かります。

実に驚くべきことだと言わざるを得ません。アメリカという国は徹底的な法治国家として有名です。見かけだけでなく、実際にも確かにそのような側面が強いといえます。1,143,358人(2007年)に上るアメリカの弁護士の総数は、ノルウェーの総人口の約4分の1に当たるほどです。彼らに常に仕事があるほどに、アメリカは「訴訟の帝国」でもあるわけです。私有制度がほとんど神格化され、法律が私有の保護膜として認識されている資本主義の宗主国であるため、社会が物神化した「法」を中心に組み立てられているとも見受けられるのです。しかし、このような模範的な法治社会であるにもかかわらず、ビンラディンの射殺を喜ぶオバマやその「順良なる民」たちは一度たりともビンラディン射殺をめぐる国際法上の検討をしたことがありません。未だに死刑制度の存在するアメリカではあっても、一応「合法的」な殺人をするためには確定された死刑判決くらいは必要です。ビンラディンの場合は、1998年11月4日にニューヨーク南部地区の法廷でアメリカ市民を殺害した疑いで起訴されたことはあるものの、欠席裁判さえも受けたことがなく、しかも自己弁護の機会などは一度も得ておりません。法学博士の学位まで持っている人にしては驚くべきことですが、オバマはビンラディンをアメリカに連行し正式裁判を開くために努力するのではなく、特殊部隊に「少しでも抵抗するようなら射殺」するよう命令したのです。死刑判決がない以上、ビンラディンの射殺は国家的に行った暗殺行為にすぎないにもかかわらず、法学博士オバマも、法に生き法に死ぬその「国民」たちもまったく問題意識を持たなかったようです。しかも、報道によりますと、ビンラディン暗殺の過程でその側近の数人の大人の男性と一人の女性、一人の子供までが米軍の凶弾に倒れて死んでいます。これは単なる暗殺行為でもなく民間人虐殺、すなわち戦争犯罪に当たる行為です(ビンラディンも客観的には民間人の身分ではあっても、主観的には自分を「戦士」と認識していただけに、やや強引に言えば、「広義の軍人」と見られるかもしれません)。それに加え、パキスタンまで行き、暗殺及び民間人虐殺行為を働いたということは、外国の領土主権を侵害する行為に当たるものでもあります。ここまでなれば最早、国家的犯罪の総合デパートのようなものではないでしょうか。にもかかわらず、アメリカの立法・司法・行政三部の要人たちは勿論のこと、「権力を牽制する」と自負する主流マスコミさえも、この犯罪行為に少しでも文句を付けたことはありません。ビンラディンの遺体を集団的に踏みにじることに夢中で、アメリカの主流全体が喜悦の中で渾然一体となって批判機能を喪失してしまったわけです。一体、弁護士たちの王国でこんなことがどうして可能なのでしょうか。
事実、この部分は近代的な「法」運営の基本原則とも直結しています。上述したように、アメリカにおいて法律はほとんど神格化・物神化しています。しかし、こうした物神化の背景には極めて明確な目的意識が存在します。アメリカの国体ともいうべき私有制が法律で守られているかぎり、法は神聖なのです。国体は神聖だからです。ところが、「国体を毀損しようとする非国民」-その「非国民」が形式上アメリカ市民権を持っていようが持ってなかろうが- は、初めから法の領域外に追いやられ下位に配置されます。彼らの表現の自由や命まで資本主義社会の法律が保護する必要は全くないのです。アメリカの民主主義を信じようとした穏健な社会主義者ユージン・デブス(Eugene Debs、1855~1926)がアメリカの第1次大戦参戦と兵役法に公開的に反対すると、表現の自由に関する法律は果して彼を保護したでしょうか。とんでもありません。戦争に反対しただけで、1918年に法律と認めることも困難な臨時法「騒擾法」により10年の懲役刑を受けました。デブスの急進的な同志であったジョー・ヒル(Joe Hill、1879~1915)は、全国各地を巡りながら様々な階級闘争に関わっているうちに、ついに殺人容疑の濡れ衣を着せられ殺されてしまいました。法の形は取っているものの、実際にデブスやヒルのような社会主義者たちは法を装った露骨で物理的な弾圧を受けたと言わざるをえません。戦争を否定し私有財産制を認めないかぎり、「法」は保護的な効力を喪失します。このような反対者に対しては、平時なら若干の寛容も施されるものの、非常時になるとただ法とは無縁に -もしくは法を装って- 「処分」されてしまいます。元々CIAのお金でソ連と闘っていたビンラディンは、抵抗の矛先をアメリカに回した途端に、このような「法の外の存在」となりました。彼の非法的な暗殺に対し、法学博士のオバマが極めて冷淡な理由は、まさにここにあるのです。法はそれ自体が神聖なわけではなく、アメリカの資本家たちと彼らの利害関係を保護する限りにおいてのみ神聖なのです。

結局、アメリカにおいて法とは絶対的というより、極めて相対的なものであるという事実を、私たちはこれでようやく確認することになりました。資本主義社会の「絶対」とは利潤以外の何ものでもないのです。大韓民国は違うと本当にお考えでしょうか。とんでもこざいません。勝りこそすれ劣ることはありません。もし南北韓の間で武装衝突が起きた状況で、私のような人間が国内の領土にいて、南韓の民衆は北の金氏王朝と南の三星 李氏王朝間の葛藤において中立を守るなり、能力が許せば戦争局面を革命局面に転換し資本主義の撤廃に努めなければならないという趣旨の発言をしたとすれば、ただちに監獄に入れられるか、「即決処分」されることはほぼ明らかです。表現の自由などどこ吹く風ということになるでしょう。体制の存続が掛かったことであれば、法など投げ捨ててでも反対者を単なる「処分」の対象とみなすのが資本主義体制の実情なのです。私はこのことをはっきり熟知しています。それでもいかなる状況に置かれていようが、民衆は支配者たちの戦争に参加してはならないと叫び続けるつもりです。これを言い続けないかぎり、私には存在の意味などさらさら感じられないからです。

原文: http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/35116 訳GF