韓国国内の外国人は2026年6月現在、280万人を超えている。これは人口の5.5%ほどに相当し、割合で言えば世界に200あまりの国がある中で中間に位置する。韓国そのものの国力だけでなく、文化の影響力も大きくなり、韓国語を学ぶ人の数も日々増加している。多文化家庭も増えているため、人種的には一般の韓国人と見た目は異なるものの、韓国で生まれ育ったため韓国語がうまい人も多くなってきている。それでも、外国人が韓国語を駆使すれば、多くの韓国人は依然として喜びを表現する。外国人に対してより好意的または開放的になったからというよりは、非常に難しいとされる韓国語を上手に使いこなすことに感心し、この社会の様々なルールを熱心に学び、それにうまく適応していることを称賛していると考えるべきだろう。国を問わず、明示的であれ暗黙的であれ様々な規範があり、新たに入ってきた人がそのルールに従うことを望む既存の構成員の気持ちというものは大方において違いはない。
韓国人や東アジア人の多くも、米国などで模範的なマイノリティー集団の代表となっている。このような模範的マイノリティーの立場には当然にも限界がある。マジョリティーからある種の称賛をされるという微妙な位置に置かれているからだ。米国などの英語圏の文化比較コメディーでよく登場する素材の一つは、米国生まれの東アジア人に対して英語がうまいと白人が称賛する場面だ。される側は人種差別的な微細な攻撃とも受け取る。称賛する立場からすれば、たいていは一種の感嘆が込められた反射的な反応なのだろうが、そもそもどの社会でも既得権者は自身の持つ見えない特権に鈍感なことが多い。すぐに反論しにくい称賛という仮面をかぶって東アジア人を外国人と決めつけている、あるいは内国人であることを知っていても微妙に線を引いているのかもしれない。
インド系や南アジア系の人を英語がうまいと称賛する状況を題材にしたコメディーは比較的少ない。インドは英語が公用語であり、米国に移民するインド人の大多数は上流階級出身者であるため、英語を駆使する人の割合はそもそも非常に高い。インド人特有のアクセントや話し方をふざけて真似ることは多いが、異邦人が英語をマスターしたと言って驚くメカニズム自体はあまり発動しない。
ドイツ、オランダ、北欧系の人は、英国や米国でそもそも外国人だと思われることはまれである。その国々の主流白人と外見上の違いがなく、たとえ国籍を知ったとしてもゲルマン系が英語が得意なのは当然だと考えられているため、わざわざ称賛する余地がない。しかし、米国や英語圏で生まれ育った非白人にとっては、特定の人種に言語が所有されているように感じられるだろう。言語は民族と結びついている性質もあるが、歴史を通じて明らかになってきたように、集団的な移植や置き換えが非常によく起こる。個人のレベルでも、移民して1~2世代過ぎるだけでも現地の言語に同化してしまいがちだ。つまり、言語は血というよりも土地とつながっているのだ。
しかし、英語に人種的固有性を与えることは韓国人にもよくある。白人の英語ネイティブ講師が今も非常に好まれていることにもよく表れている。最近は制度や認識の変化につれて減ってきたようだが、一時は英語が母語でない欧州人の方が、英語を母語とする非白人よりも講師として好まれた。もちろん、資格のない米国人よりも韓国人教師の方が英語の教え方がうまいように、必ずしもその教師の母語が英語である必要はないだろうが、こうした教育学的、言語学的考慮ではなく、見た目ばかりを重視したためにそういうことが起こっていた。
英語は第一言語(母語)として多くの人種が使っているだけでなく、第二言語(外国語)としても世界で最も広く通用しているため、英語ネイティブはコミュニケーションのみが目的であれば、人種や国籍とは関係なしに相手が英語を話しても特に大きな反応を示さないことが多いが、英語が苦手な人にも多く接するため、親切に接してくれることもある。もちろん、英語を世界共通語だと考えているため、聞き取れない人にイライラする人もいることはいる。母語に対する自負が強いフランス語のネイティブは、外国人がフランス語がうまいことに喜ぶ人もまれにいるものの、フランス語が下手だと返事もしてくれなかったり、イライラしたりすることもある。両言語の話者の傲慢な態度は一見似ているようだが、中身が異なる。英語は誰もが話せるべきだという認識から、フランス語は美しいから破壊してはならないという誇りから、その態度が生じているからだ。
ドイツやオランダ、スカンジナビアなどで外国人が不慣れな現地の言葉を話したら、現地の人はすぐに英語で話してくれることが多い。相手を配慮する実用主義的なあり方だが、実際にその言語を学ぼうとしている人には時に壁として感じられうる。イタリアやスペインなどの南欧では、少し誇張すれば、外国人が現地の言葉を一言話すだけでも喜んでくれる。また、スペイン人や中南米の人は外国人にスペイン語で話しかけてくることもあるが、誰もがスペイン語を話せるべきだという傲慢さというより、スペイン語も広く使われている言語なのだから、相手もある程度は話せるだろうという推測、または文法や発音が少し間違っていても仲良くなれるという歓迎に近い。日本人は外国人が日本語を話せると喜ぶが、下手だと少し渋い顔になり、子どものように扱うこともある。内外を厳格に区別する日本人特有の性格が原因かもしれないが、外国語として広く習得されていない言語の話者であれば、ほぼ似たような態度を示すだろう。
国や言語圏ごとに置かれた環境が異なるため、これらの態度の中でどれがましかを断定するのは難しい。韓国人も日常で外国人のつたない韓国語にどう対すべきか、まだよく分かっていない。生きていく中で、私たちは何らかのかたちで人の言語を評価し、自分の言語も評価されざるを得ないため、それ自体を否定する必要はない。しかし、下手だと叱責したり、うまいと褒めたりする前に、まず互いを迎える姿勢を持たなければ、同じ地で共に暮らすことはできない。
シン・ギョンシク|翻訳家 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )