俳優のハヨンさんの曾祖父のアン・サンホの親日行為や、祖父が小鹿島(ソロクト)の医師だった時代の行いが明らかになり、大きな社会的怒りを買った。一方で「連座制」だとして当事者を擁護する声もあがり、波紋はさらに広がった。議論のほとんどは親日に集中した。しかし、今回の問題が浮き彫りにしたのはそれだけではない。作家ベル・フックスは「人種とジェンダーが階級政治を隠蔽するスクリーンになる」という現実を鋭く指摘している。時には歴史や民族も階級を覆い隠す。
まず、問題となったのはハヨンさん本人ではなく先祖の過去であり、自身の「無知」を認めて謝罪文まで書いていることを考慮すれば、「活動停止」や「芸能界からの退場」要求は行き過ぎだ。過去の事例をみても、それほどの要求が大多数の共感を得るには学校暴力での加害、兵役忌避、常習的な飲酒運転くらいは必要だ。今回のことはそうはみえない。しかし、ハヨンさんに対する批判は「連座制」だという一部の主張は、さらに筋が通らない。連座制であれば、家族問題によって当事者が刑事罰または行政上の不利益を受けていなければならない。当然そんなことはなかった。さらにこの件は、ゴシップメディアやパパラッチが暴露したのではなく、俳優自身が度々メディアに語っていたことから始まったものだ。
親日問題に隠れてしまっているが、今回の事態には別の強力な雷管が存在する。それは「階級」だ。そもそもハヨンという俳優はなぜあれほど「家柄自慢」をしていたのだろうか。もちろん曾祖父の経歴が問題になるとは思っていなかったのだろうが、ここで言いたいのはそのような表面的な理由ではなく、社会的背景だ。
ハヨンさんはドラマなどで主役級になり、まさに「売れている」状況で、当然ながらマネジメントを担当する事務所にも所属している。早く大衆に名を知ってもらいたい立場からみると、「4代続く医者の家系の俳優」というタイトルは一瞬で注目を集める「スペック」かもしれない。近年の韓国社会はレガシーメディアかニューメディアかを問わず、有名人の「家柄自慢」を次々に量産、消費してきた。そのような雰囲気の中で、ハヨンさんも機会があるたびに自身の「華やかな一族」を誇示していたと思われる。
ここで疑問がわく。もし彼女の曾祖父が親日派でなかったとしたら、どうなっていただろうか。あるいは独立運動家や愛国志士だったらどうだっただろうか。「美しく演技もうまいが、実は家柄も名門だった」と称賛されていたのではないか。では、「自慢できる」家柄なら、あるいは親日や犯罪の前歴がなかったら、公的な場での「家柄自慢」は何の問題もないことになるのだろうか。
過去には、親や家族の後光を浴びるのを嫌ってまったく異なる名前を使ったり、親が誰かを公開せずに活動したりする人が少なくなかった。しかし最近は、芸能人2世やスポーツスターの2世たちの日常を素材にした「世襲家族コンテンツ」が大量生産されている。いわゆる「金のスプーン(裕福な家柄)芸能人」の記事もあふれている。まさに「全国スプーン自慢」だ。しかし、この退行的な風潮を批判する声は非常に少なく、あがっても大きな反響は得られない。考えてみれば奇妙だ。「ただ乗り」にあれほど怒り、「不公正」に歯ぎしりする能力主義の国である大韓民国が、出発点からして違う現代版貴族たちの生活にこれほど寛大なのだから。
もしかすると、韓国の能力主義者たちは不平等どころか「スプーン」さえ問題にしなくなったのかもしれない。「能力がないならお前たちの親を恨め」と言い放ったチョン・ユラのように、出生運はもはや不公平な既得権ではなく、生まれ持った才能や「スペック」として認識されているのだ。しかし、ある人は三塁で生まれ、ある人は一生スタジアムにすら入れないという現実をそのままにしておいて、たかが試験の機会を同じように与えるだけでは、公正が実現するはずがない。哲学者ジョン・ロールズは『正義論』で「誰も自身の天賦の能力や功績を社会でより有利な出発点として利用する資格はない」と書いている。「スプーン」を問題にしない公正など、構造的な不平等を隠蔽し、個人の選択と努力に責任を転嫁する欺瞞(ぎまん)に過ぎない。
このような文脈からみると、俳優のハヨンさんに対する批判は「腹が痛い(韓国語で「成功している者をねたむこと」を意味する慣用句)からやっているのだ」という一部の皮肉は、馬鹿げてはいるが一抹の真実が含まれている。親日や不平等は何ら問題ないと考える者にとって、その「腹の痛み」はねたみやそねみに過ぎないだろう。しかし、そうでない平凡な人々にとって、それは明らかに階級的な痛み、「階級痛」だ。その痛みは親日という欠格事由によってかろうじて正当化され、噴出できたという点で、正確に言えば「抑圧された階級痛」なのだ。
パク・クォニル|メディア社会学者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )