指揮者のサイモン・ラトルは、数百人の演奏者と合唱団を要するアルノルト・シェーンベルクの『グレの歌』について、「単に600人の人間が必要な室内楽にすぎない」と形容したことがある。この逆説的な説明は、クリストファー・ノーラン監督の映画『オデュッセイア』にこそふさわしい。多くのレビューが壮大なスペクタクルや戦闘のリアリティーに言及しているが、この映画は素朴な室内劇に近い。トロイは巨大な大都市として描かれておらず、ギリシャ軍は荒涼とした浜辺に孤立した数十人の集団のようにみえる。壮観であるべきスキュラとカリュブディスのシーンにも過剰さがない。こうした抑制こそが、この映画を偉大なものにしている中心的な要素だ。
叙事詩『イリアス』が男性の偉業と闘争に焦点を合わせ、女性を背景の装飾物へと矮小化しているのに対し、『オデュッセイア』は女性の内面を描く余地を設けているという点は、広く言及されてきた。しかし、映画はそこからさらに一歩踏み込む。アン・ハサウェイやシャーリーズ・セロンといった有名俳優は、性的な対象として描かれることなく登場し、原作では男たちを誘惑する女性だったキルケは、男性たちの貪欲さに嫌悪感を抱き、彼らを豚に変えてしまう。一方、アガメムノン王やトロイの兵士たちといった男性たちは、兜で顔が隠されていたり、匿名の存在として登場したりすることによって、英雄主義的な物語の担い手になっていない。
映画は英雄叙事詩が隠した汚い現実を暴露する。木馬の内部に隠れたギリシャの戦士たちは、狭苦しい空間で互いの体に排泄物をかけながら、数日間耐える。このような描写はブレヒト的な手法で神話を異化させる。新たな時代の始まりには原初的な犯罪が存在するという事実を直視する点は、この映画の成果だ。オデュッセウスは、トロイ人に木馬は和解の贈り物だと説得するために、若い兵士シノンを送るが、彼には木馬の内部にギリシャ兵が隠れているという事実を告げない。シノンが嘘を心から信じていてこそ、作戦が成功するからだ。彼はシノンが殺害されることになると知りながらも、そうするのだ。
青銅器時代の英雄的な名誉の秩序がオデュッセウスの策略と嘘の上で築かれ、古典期のギリシャに移行したように、こんにちの人類は、機械の時代から人工知能(AI)と「脱真実(ポスト・トゥルース)」が支配する時代へと突入している。次の秩序がさらに高次元的な文明になるのか、新たな野蛮になるのかは分からない。あらゆる文明は野蛮の上に築かれているが、イデオロギーはきらびやかな新たな秩序だけを称賛し、その土台になった犯罪は隠す。一方、映画は、その犯罪がどのような文明を誕生させるかについては示すことなく、文明建設の暴力だけを前面に押し出す。
私は『オデュッセイア』を衰退する秩序を描いた悲劇としてではなく、西欧の伝統の基礎となった新たな文明の残酷な誕生劇として読みたい。したがって、過ぎ去った時代の英雄的な名誉に対するオデュッセウスの郷愁は偽りだ。新たな秩序にすでに足を踏み入れた以上、過去に戻る道はなく、過去の偉大さを復元しようとする試みは、新たな野蛮を生み出すからだ。
テオドール・アドルノは『啓蒙の弁証法』で、オデュッセウスを生存のために欲望を抑え込み、支配を手にするブルジョア的な主体の原型として読み解いたが、このような解釈もまた不完全だ。オデュッセウスの策略は、単により大きな集団の生存のために個人を合理的に犠牲にする道具的理性の行為ではない。それは、他人と自分自身に放棄と犠牲を強いることで、サディスティックな快楽を得る倒錯的な衝動だ。
映画の最後でオデュッセウスは、自らが死に追いやった兵士たちをたたえるために、西へと旅立つ。皮肉を込めて言えば、私は彼がアメリカに到着し、オデュッセウスの破壊性を見抜いた先住民に殺害されるエンディング・クレジットの映像を勝手に想像してみる。それでも、これほど難解で暗い映画が、愚かなブロックバスター映画が幅を利かせるなかで興行的に成功しているという事実そのものが、文明がなお存続していることを示す希望の兆しにみえる。
スラヴォイ・ジジェク|リュブリャナ大学(スロベニア)、慶煕大学ES教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )