「今日(ハングルで「クム-イル」)申請締切」。これを「金曜日(クム-ヨ-イル)」の意味だと勘違いした人がいたという話が広まっている。すると、「生徒たちが漢字を知らないせいで、読解力が低下した」という嘆きの声が上がる。たちまち、小学校の教科書への漢字併記、漢字級数試験(漢字の習得度を級数で評価する検定試験)の拡大、漢文教育の強化が、あたかも奇跡的な解決策であるかのように持ち出される。
しかし、教育政策は一つ二つの事例や過去への郷愁だけで決めるべきものではない。すべての生徒に新たな学習時間と評価の負担を強いる側は、まず答えなければならない。漢字教育を拡充すれば、何がどれだけ良くなるのか。どの学年のどの生徒に、どのようなかたちで効果が現れるのか。その利益は、他の学びの機会を減らすほど大きいものなのか。
漢字、漢字語、漢文はそれぞれ異なるものだ。漢字は文字であり、漢字語はいまの韓国人がハングルで書き、話している韓国語の語彙であり、漢文はかつて東アジアで用いられた古典的な文語だ。漢字語の理解は重要だが、漢字を数多く書いたり暗記したり、漢文で書かれた古典を解読したりすることとは同じではない。
漢字語の読解力とは、ハングルで表記された単語を文脈のなかで理解し、聞き慣れない語彙の意味を推測し、自分の考えを表現する能力だ。したがって、漢字語は国語の授業において、実際の文章や使用例を通じて教えるべきだ。漢字は単語の構成や語源を調べるための補助資料となり得るが、中心となるのは韓国語の意味と表現だ。
一部の研究では、国語教科書に出てくる漢字語の指導が読解力の向上に役立つ可能性があると報告されている。しかし、これは名目上は漢字教育であっても、実際には国語の授業による効果だ。だからといって、小学校の教科書への全面的な漢字併記、漢字級数試験の拡大、さらには漢文の必修化にまで踏み込むのは性急だ。
漢字級数試験は、古典文献や漢字資料を扱う人にとっての選択的な目標になり得る。しかし、級数が高いからといって、長い文章の論旨を把握し、資料の根拠を比較し、考えを正確に表現できるわけではない。現行の級数制度の教育効果が説得力を持って検証されていない状況で、これを公教育における読解力の物差しとして用いてはならない。
小学校の教科書への漢字併記についても、慎重であるべきだ。漢字は語源を示し、同音異義語を区別する補助手段になり得る。しかし、「民主主義」をハングルと漢字で併記したからといって、その意味をおのずと理解できるわけではない。概念は文脈と事例、質問と対話、読み書きを通じて学ぶものだ。全面併記を求めるのであれば、ハングル中心の授業よりも、全面併記の方が読解力と概念の理解度をさらに高め、読むことへの負担を増やさず、私教育による格差を広げないという資料をまず提示すべきだ。
漢文は切り捨てるべき対象ではない。ただし、韓国語の読解力における必須の関門ではなく、歴史的な古典言語として、選択・深化(深い学び)教育のなかで扱うべきだ。原文を翻訳するにとどまらず、その文章が誰の声であり、どの時代の権力や秩序を反映しているのか、中国中心の思考や上下関係を重視する価値観をどのように批判すべきかを検討し、テキストも厳選しなければならない。
漢文を独立した教科として維持・拡大することを主張する側も答えるべきだ。そうしなければ得られない教育成果とは何か。国語、歴史、文学の連携授業や選択・深化課程では、なぜ得られないのか。漢文の授業時間を増やせば何を削減することになり、その損失よりも利益が大きいという証拠はどこにあるのか。さらに、「今日申請締切」のかわりに「きょう申込みが締め切られます」と、分かりやすく明快に書く公共言語の改善にも率先して取り組めば、議論に対する共感の輪を広げることができるだろう。
漢字語は国語として、漢文は古典の読解として、漢字の級数は再整備したうえで、個人の選択にゆだねよう。小学校での漢字併記はできるかぎり避けるべきだ。これは漢字を排除しようという意味ではない。生徒に新たな負担を求めるのであれば、その利益をまず証明せよということだ。読解力とは、過去の権威を漢字中心に暗記する力ではなく、いまの世界を読み解き、根拠を追及し、より良い未来を韓国語で築いていく力でなければならない。
ホ・ビョンドゥ|ブックカフェ「ドナドナ」代表・元大統領直属教育改革委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )