現在の戦争に対する私の立場は明確だ。われわれはイランの「聖職者ファシズム」(Clero-fascism)体制に反対しなければならない。同時に、米国とイスラエルの攻撃にも反対しなければならない。イラン政権とドナルド・トランプの米国は、同じ世界秩序の一部だからだ。
トランプは先日、米国とイスラエルに適切に対応するイランの新指導部を探しているとして、指導者が宗教指導者であっても問題なく、イランが必ずしも民主主義国になる必要もないと強調した。米国が語る自由と民主主義の実態が何であるかをよく示しているものだ。
このような状況下でわれわれは、過去のイラン政権が抑圧的な統治を行ってきたにもかかわらず、イランを支持しなければならない。イランが自国の主権だけでなく、「主権」という世界的な原則そのもののために戦っているからだ。米国は事実上、イスラエルの植民地であるかのように行動し、他国の主権を繰り返し侵害している。イランの政権交替が歓迎すべきことであるのなら、米国の政権交替も要求できない理由はないだろう。
あまり重要にはみえないかもしれないが、イランを理解するためには、その国の権力エリート内部で受け継がれてきた知的伝統を検討する必要がある。1990年代半ばまで、哲学者アフマド・ファルディードは、ドイツのマルティン・ハイデッガーの哲学を基に、西欧合理主義がイスラム文明を汚染しているとするイスラム共和国の理念的基盤を構築した。このような強硬なイスラム路線に対抗し、1997年から2005年まで大統領を務めたモハマド・ハタミは、社会哲学者ユルゲン・ハーバーマスの『コミュニケーション的行為の理論』に基づく「文明の対話」を提唱し、改革路線を試みた。
イランの知的討論において最近まで重要だった名前は、イランの安全保障分野のトップだったアリ・ラリジャニだ(彼は最近、イスラエルの標的空爆で死亡した)。彼は穏健かつ実用的な保守政治家で、西側との核協議を主導した。しかし、最近になり、イラン国内のデモを鎮圧する責任を負うこととなり、アヤトラ・アリ・ハメネイの死亡後、急速に強硬路線に転じた。
私が興味深いと考える点は、ラリジャニが西洋哲学で博士号を取得し、ドイツ哲学者イマヌエル・カントに関する著作を数冊執筆した人物だということだ。ここで疑問が生じる。カント哲学は権威主義的な政治や暴力的な権力を正当化するために用いることができるのか。ハンナ・アーレントは『エルサレムのアイヒマン』で、ナチスの実力者たちが、自分たちの行為を「任務遂行」という名目で正当化したと説明する。彼らはおぞましい仕事をしているという事実を知りながらも、これを個人の選択ではなく命令にともなう責任だと解釈し、自身を正当化した。
しかし、アーレントが戦犯であるアドルフ・アイヒマンを命令に服従したカント主義者とみなしたのは、カント倫理学に対する誤解だ。
カント倫理学は、与えられた命令に服従する倫理ではなく、何が義務であるのかを個人が自ら判断して責任を負う「急進的自律性」の倫理だ。したがって「私は命令に従っただけ」だという弁明は、最も根本的な倫理的失敗となる。たとえば、学生たちに過酷な処罰を与える教師が「私も子どもたちをかわいそうに思うが、こうすることが私の義務なのだから、仕方ない」と言って自分の行動を正当化するのは、あってはならない。
カント倫理学においては、自身の義務を遂行するだけでなく、何が義務であるのかを決めることについても、全面的に責任を負わなければならない。イラン体制を支持する思想に欠けているのは、人々が一般に考えるような西欧自由主義ではなく、まさにカントの急進的自律性だろう。
イランのシーア派エリートは、内部で統治理念と体制をめぐる高度な知的討論を受け継いできたが、権威主義的な政治路線からは脱却できなかった。悲劇的な結論は、米国とイスラエルが軍事攻撃によって、ある程度はイラン首脳部内で対話が可能な穏健な人物さえも強硬派に変えてしまい、状況をさらに悪化させているという点にある。
スラヴォイ・ジジェク|リュブリャナ大学(スロベニア)、慶煕大学ES教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )