米国のイラン侵攻以降、世界は軍事的な対立と経済不安が相まった長期的な激動期に入った。それに伴い、国際秩序が根本的に変化しているという認識も鮮明になっている。だが、より深く考えるべきなのは、現在の激動が単なる秩序の交代ではなく、旧秩序内部の矛盾が噴出する過程だという点だ。その余波は、外交・安保や対外貿易を超え、民主主義、人権、文化の深層にまで揺さぶりをかけ、私たちの暮らしの条件を再編している。
いま幕を閉じようとしている時代とは何か。多くの人が注目しているのは、過去数十年にわたり持続してきた自由主義的国際秩序の崩壊だ。国際政治学において、これは国際法や規範、制度化された安保協力を軸とする秩序を指す。より広くは、世界的な開放経済、民主主義と法治、人権、包括的な自由、福祉国家を包括する規範的・制度的体制を意味することもある。ところが、問題は、この秩序が崩壊したという点だけではない。その秩序が掲げた規範と、実際に生み出した暴力との間の矛盾が、もはや隠し通せなくなっているという点にある。
この秩序は、20世紀前半を揺るがした二つの世界大戦とファシズム、大恐慌の惨事に対する痛切な反省の中で築き上げられた。主権と自決、法の支配と人権、平和と国際協力がその主軸となる原理だった。現実は常にその理想には及ばなかったが、少なくともそのような価値と規範は、国際社会の正当性を測る基準として残っていた。いま世界を揺るがしているものは、その最低限の基準そのものが公然と無視されているという事実だ。まさにそれが、現在の衝撃と不安の源泉だ。
しかし、いまの世界を理解するためには、自由主義的国際秩序と力の秩序を単純に対立させてはならない。こんにちの暴力は外から押し寄せたものではなく、まさに旧秩序の中で育まれたものだ。自由主義的国際秩序は、単に理想に及ばない限界にとどまらず、本質的な自己矛盾を抱えていた。それは我々がいま目の当たりにしている独裁、侵略、抑圧といった非自由主義的な暴力を、自ら内包し育て上げた。過去の自由の中には未来の暴力の種があり、現在の暴力の中には過去の堕落した自由が残っている。
いまの世界は、そうした破壊的な矛盾が生み出した結果だ。冷戦期には「自由」と「民主主義」という言葉が独裁を覆い隠す仮面であり、脱冷戦期には「ルール」と「開放」という言葉が不平等と支配を覆い隠す装置だった。1950年代以降、先進工業国は民主的福祉資本主義を発展させたが、世界の多くの地域において「自由」と「民主主義」は、独裁を正当化する反共イデオロギーの言葉だった。1990年代以降、米国による単独覇権の下で自由主義秩序のルールが安定的に機能していたように見えるが、同時に不平等の深化と富の独占、治安国家の肥大化が続いた新自由主義の時代でもあった。
したがって、自由とルールの時代が突然終わり、全く異なる暴力と力の時代が幕を開けたわけではない。長い間蓄積されてきた矛盾をもはや制御できなくなったため、その矛盾がいまや規範の殻を破って前面に登場したのだ。自由主義国際秩序の基本枠組みは、米国という超大国の国力、世界にルールを強制する意志と影響力、自らルールを遵守する自己規律、そして国内に民主的価値を支える力があったからこそ保たれてきた。まさにその基盤が内側から崩れ落ちた。それは単に米国の国力の衰退ではなく、自由主義秩序が育んできた富の集中、民主主義の後退、極右の主流化が一気に爆発した結果だ。
その廃墟の上にいま台頭しつつある世界とはどのようなものか。国際政治的に有力な診断は次の三つだ。第一に、「新冷戦」仮説は、米中覇権競争、米国と中ロの対決、あるいは西側対反西側の対決を主軸として定義する。第二に、「勢力圏」仮説は、米中ロの三大国がそれぞれの勢力圏で排他的な覇権を追求し、相互の競合と取引によって世界を分割するだろうと見通す。第三に「各々自生論」は、世界が陣営や勢力圏として構造化されることなく、生存競争と合従連衡が続くとみている。
これら三つの仮説は現実の異なる側面を照らし出しているが、共通する診断は、規範の弱体化と露骨な力の論理だ。この変化は、これまで進んできた政治、市民社会、文化の退行をどのように爆発させるだろうか。
政治における変化の核心は、独裁化を促進する国際環境が作られていることだ。自由主義秩序の下では、権威主義的な権力が選挙、法治、人権を露骨に廃止することなく民主主義を後退させる混合体制の事例が多かった。国際的な規範と圧力が強く働いていたからだ。だが、現在はそうした歯止めが弱まった。国際環境は反応せず、大国は利害関係に従う。その結果、政治的コストを懸念することなく独裁化が敢行できるようになり、大国による勢力圏強化の意図に迎合した傀儡政権の樹立の誘惑も大きくなった。
また、民主的な市民社会の弱体化は、力による国際秩序の社会的基盤となっている。組織化された労働階級と解放的な社会運動は、1960年代以降、民主主義と人権、平和を支えてきた力だった。ところが、2000年代以降、極右・過激右派運動が急成長し主流化したため、今やどの大国においても、民主的な市民が統治者を統制する力を持ち合わせていない。カントを継承する民主平和論の視点から見れば、現在の世界の問題は単なる力の濫用ではなく、その力を牽制する市民的力の不在でもある。
文化とイデオロギーの面において、新たな秩序はその本質を、弱者を抹消することにおいてあらわにする。教皇が戦争の惨状を批判すると、トランプ大統領は「現実を知らない」と嘲笑した。しかし、苦痛に絶叫する人間を直視することこそが真の現実主義だ。にもかかわらず、なぜそれが非現実だと見なされるのだろうか。弱い存在たちは、取るに足らない、存在しないものと見なされるからだ。このように、力の秩序に対応する「権力現実主義」は、平等と人間の尊厳に真っ向から逆らい、結局は過激主義へと傾く。その思考構造がいまや世界を支配し始めた。
このように、世界の変化は総体的であり、歴史的に蓄積されたものだ。それだけ、いまの時代の基盤は大きい。韓国は時代の激動の中で、国家の利益を守るための対応策を必死に模索している。しかし、民主主義、人権、平和が無視される世界秩序が確立されれば、韓国もまた時代の荒波を免れることはできない。多くの人が各々の生き残りと現実主義を口にするが、まさにそのような生存主義こそが、この時代の危険な罠である。強者が作り出した現実に適応することを超え、私たちが作り出す世界のビジョンを描き出し、国際的な連帯を構築していかなければならない。