「あなたたちは痛ましい歴史の痛切な教訓から得たものが何もないようですね。懺悔や省察もせず、まるで何の過ちも犯していないかのように、依然として同じ行動を取っているように見えます」
2日、市民団体「人権連帯」と共に民主党人権委員会の主催で開かれた「検察・警察が捜査中の被調査者の自殺原因および対策」討論会で発表された、キム・ヒス弁護士の討論文の一部だ。「あなたたち」とは捜査機関とマスコミのことだ。検事出身のキム弁護士は俳優イ・ソンギュンさんの死亡事件を警察とマスコミが共謀した「社会的他殺」だと主張した。警察とマスコミが共同でイさんを悪魔化し、恥をかかせ、侮辱を与え、結局死に追い込んだということだ。キム弁護士は告発状を書くつもりで討論文を書いたという。
「捜査機関が(情報を)流し、マスコミがそれを記事にする」慣行は、有力政治家や芸能人など社会的に注目を浴びる人々をめぐる捜査のたびに、指弾の対象になってきた。2009年、盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領の捜査過程で出た「畔道に高級腕時計を捨てた」という報道が端的な例だ。捜査機関の「疑い」に過ぎない捜査内容がそのままマスコミに報道されたうえ、公開召還でフォトライン(記者が取材対象者から一定の距離を置いて取材するよう設定した取材境界線)に立たせるなど、公然と「有罪の烙印」を押したという点で、イ・ソンギュンさんの事件と盧武鉉元大統領の事件は「似ている」と言える。
盧元大統領が取り調べを受ける過程で自ら命を絶った後、法務部は2010年「起訴前の容疑事実の公開禁止」原則を骨子とする「人権保護のための捜査公報準則」を定めた。警察庁も2014年に同様の趣旨の「警察捜査事件などの公報に関する規則」を制定した。しかしイ・ソンギュンさん事件からも分かるように、反人権的捜査・報道の慣行はそれほど変わっていないようだ。特に、芸能人関連事件では、窃視症に近い行動が何の躊躇(ちゅうちょ)もなく繰り返される。芸能人は大衆の関心を集めてこその職業だから、それでもいいと思っているのだろうか。
芸能人関連事件の場合、捜査対象者はまずおびただしい報道の量に圧倒されがちだ。あるメディアが「独自」という見出しを付けて記事を出せば、あっという間に数十、数百件の記事がコピーされ、広がっていく。報道内容が事実か、報道する価値があるかどうかは二の次だ。
マスコミの犯罪捜査報道の中でかなりの部分は捜査機関だけが知っているはずの「被疑事実」だ。刑法は、捜査機関が起訴前に被疑事実を公表した場合、処罰するよう定めている。憲法に「無罪推定の原則」が明示されていることを考えると、極めて当たり前なことだ。捜査過程で流れてくる被疑事実は、どうにかして被疑者を締め上げようとする捜査機関の「望み」が反映された一方的な主張である可能性が高い。事件関係者の「汚染された」供述である可能性もある。このような内容がマスコミにそのまま報道されれば、大衆に有罪の予断を植え付けかねない。公正な裁判を受ける権利を侵害することでもある。
しかし、これまで被疑事実公表罪で処罰を受けた人は誰一人いない。事実上、死文化したといっても過言ではないだろう。こうなった背景には様々な理由がある。まず、捜査機関が公式ブリーフィングなどを通じて露骨に被疑事実を「公表」することはほとんどない。匿名の「関係者」によって特定のメディアに捜査内容が「流出」されるケースがほとんどだ。取材源が明かされないため、誰も責任を取らない。だからといって、流出者を探すために記者を調査することもできない。直ちに言論の自由の侵害だとして物議を醸すのが目に見えるからだ。もちろん捜査機関の犯罪を捜査機関みずからが積極的に捜査するはずもない。
国民の知る権利も考慮せざるを得ない。捜査事案が公的な関心事の場合、ひたすら非公開で捜査を進めることは難しい。マスコミも被疑事実の公表が議論を巻き起こすたびに、「知る権利」を前面に出して反論してきた。法務部と警察庁が内部訓令などを通じて被疑事実公表禁止の「例外規定」を設けたのもこのためだ。しかし、知る権利は報道内容に公益的価値がある時にのみ意味を持つ。イ・ソンギュンさんの場合、政治家のような公人でもないばかりでなく、多くのマスコミが暴いた彼の私生活にどんな公的価値があるのかも疑問だ。また、知る権利が人格権や公正な裁判を受ける権利より上位にあるとみる理由もない。
ポン・ジュノ監督など文化芸術家たちは12日、声明書を出し「二度とこのような悲劇が繰り返されないことを望む」と訴えた。もしこれまでそうしてきたように、何もなかったかのようにこの事件が忘れられれば、第2、第3のイ・ソンギュンが出てくる可能性が高い。もう韓国社会が真剣に問いかけなければならない。
捜査を有利に進めるために被疑事実を流す行為が正当なのか。薄っぺらな好奇心を知る権利という名の下で満たしてきたのではないか。効率的な捜査と国民の知る権利のためなら、留保されても良いほど人格権は些細なことなのか。