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[朴露子の韓国、内と外]「試験共和国・韓国」の暗い影

登録:2023-04-12 20:47 修正:2023-04-13 09:53
しかし、試験を通じて選抜された公務員たちが既得権ではなく公益のみを気遣うという話は、無駄な期待に過ぎない。新自由主義導入後はなおさらだ。各種の試験をパスし、いよいよ高位職公務員になる人々の中で、既得権と関係ない人々を探すことはもはや容易ではない。(…)先日まで財閥の捜査を進めていた検事たちが、前官弁護士になって財閥大企業に迎え入れられる状況は、能力主義のように見える試験制が国家組織の事実上の私有化をまったく防ぎえないことを示している。
イラストレーション:キム・デジュン//ハンギョレ新聞社

 私たちはたいてい「先進国」という用語を欧米諸国に対し使ったりするが、実は産業革命以前の世界では東アジアこそが先進圏だった。紙、金属活字、火薬、ロケット、紙幣などの主要発明品を独占したことは、その先進性の一面だった。しかし、東アジアの先進性はそれだけではなかった。

 漢では紀元前134年に始まり、新羅が788年に読書三品科の形で受け入れた試験を通じた公務員登用制度は、当時世界のどの地域でも施行されていなかった。ユーラシアの別の帝国であるビザンティウムやアラブカリフ国、あるいはササン王朝などで公務員登用は主に家の身分や人脈で行われたが、東アジアは早くからより客観的な登用・考課基準を導入した。

 それに比べ、欧州の試験制はかなり後発だった。イタリアのボローニャ大学は、欧州で初めて1219年に学位取得試験制度を整備したが、それは筆記試験でもなく口頭試験だった。欧州の大学における最初の筆記試験は15世紀になってようやく導入され、18世紀に一般化される。公務員登用試験はヨーロッパでプロイセンが1748年に初めて導入したが、当時の参考モデルがまさに啓蒙期のヨーロッパ人が慕った清の科挙制だった。

 高麗で958年に科挙制が初めて実施されて以来、韓国の地で試験を通じた人材選抜が中断された時期はほとんどなかった。甲午改革で科挙制が廃止されると、議政府の銓考局、文官銓考所など新式科目中心の公務員試験を主管する部署が間もなくできた。

 日帝も日本内地で施行中の公務員試験制を、朝鮮人エリート包容次元で彼らに開放した。日帝強占期に朝鮮人385人が普通文官試験に、134人が高等文官試験に合格し、彼らの大部分は朝鮮総督府などで官職に就いた。彼らはその後、大韓民国公務員集団の骨格を成すことになる。日帝時代の文官試験制は、1949年に高等考試令が制定された時にその基本準拠の枠組みにもなった。韓国の公務員試験制は、その始まりからして植民地的過去との断絶より持続性がさらに濃かったわけだ。

 今、大韓民国は世界でも稀有な「試験共和国」だ。満3歳の子どもたちがレベルテストを経て英語幼稚園に入る。世界で3歳の幼児が入試を受ける国は、果たして韓国以外にあるだろうか? 韓国人の各種試験の受験は初老の年まで続くこともある。公務員試験合格者統計によれば、まれに50代の合格者が目につく。つまり、韓国人なら人生の大部分を試験準備と共に過ごす確率があるということだ。

 他国では珍しい大学教授身分の神格化も、やはり「試験共和国」という現実と無関係ではない。相当数の試験出題委員たちも、受験生が読まなければならない参考書を出版して金を稼ぐ人たちも、まさに大学教授だからだ。大韓民国は、試験という通過儀礼を運営・管理するごく少数のエリートと、試験合格に命をかけなければならない大多数とに二分される。むろん、この二つのグループ間の関係は最初から平等であるはずがない。

 試験で採用され昇進する日本の経済官僚たちが経済開発の司令塔の役割を果たした日本公職社会を研究したチャルマーズ・ジョンソン (1931~2010)が「発展国家」という概念でこれを説明した。以後、多くの研究者が韓日中、ないし台湾とシンガポールの能力主義的官僚制と試験による採用・昇進審査を賛嘆した。ひたすら試験の成績で選ばれ「鳶が鷹を生む」、すなわち貧寒な環境で育った自手成家型人材まで含む官僚組織が既得権層から相対的に自律的であり、それだけ私益ではなく公益のために合理的に動くことができるというのがこの賛辞の骨格だ。

 相対的に進歩的な学者たちも共有するこの「東アジアの能力主義的官僚制」に対する好評にはもちろん合理的なところがある。試験制はいかなる弊害があろうと、官職売買や人脈採用、あるいは政派的利害関係による政略的「官職分け合い」に比べれば、それこそ先進的方法と言える。野党の指導者で少年工出身のイ・ジェミョン「共に民主党」代表が1986年に司法試験に合格できたのは、新自由主義到来以前の「試験共和国」の能力主義的面貌を見せたりもする。

 しかし、試験を通じて選抜された公務員たちが既得権ではなく公益のみを気遣うという話は、無駄な期待に過ぎない。新自由主義導入後はなおさらだ。各種の試験をパスし、いよいよ高位職公務員になる人々の中で、既得権と関係ない人々を探すことはもはや容易ではない。昨年、全国のロースクール合格者の54.2%がスカイ(SKY:ソウル大学、高麗大学、延世大学)出身であり、スカイ在学生の半分以上は年間1億ウォン(約1000万円)以上の所得がある家庭の出身だった。いくら能力の優れた少年工でも、裕福な家庭の子どもたちが高価な私教育を受けて名門大学を経て高位職に就くシステムに割り込むことはもはや不可能に近いだろう。そして昨日まで財閥の捜査を進めてきた検事たちが、前官弁護士となって財閥大企業に迎え入れられる状況は、能力主義のように見える試験制がもはや国家組織の事実上の私有化をまったく防ぎえないことを示している。

 「試験共和国」は過去に公正だったことはなく、後に公正になりもしない。昔も今も試験に合格するかどうかは、受験者の努力だけではなくその家庭が持っている財力や文化資本の影響を大きく受けるからだ。しかしそれと同時に、表向きは公正で合理的な人材選抜方法と見られる試験に対する盲信は、韓国社会の新自由主義の理念的ヘゲモニーを大きく強化している。すべてが「試験合格」で決定される社会では、非正規労働者を含む弱者の悲劇は簡単に「努力不足」の結果だと合理化できるためだ。「試験共和国」の支配イデオロギーにおいて、非正規労働者とは単に正規職公開採用に合格できなかった無能力者であり、それに対する差別待遇は公正・能力主義談論で正当化される。もちろん社会正義の観点から見れば、非正規職の量産そのものがすでに公正を裏切る行為だが。

 幼児期から老年まで試験を受けなければならない所では、新自由主義者が利用する能力主義談論の犠牲になる弱者さえもこの談論から抜け出せない自己矛盾的な姿を見ることができる。試験本位の韓国的能力主義は差別と搾取を合理化する論理に過ぎないということが社会的通念になってこそ、この社会で名実共に進歩も可能になるだろう。

//ハンギョレ新聞社
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)オスロ国立大教授・韓国学 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1087486.html韓国語原文入力:2023-04-12 02:35
訳J.S

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