「政治の秘密とはなにか。ロシアと良い条約を結ぶことだ」
ビスマルクは、1862年にプロイセン首相に就任した翌年、新興プロイセンが欧州列強として生き残りドイツ統一を成し遂げるためには、ロシアとの友好関係が重要だと述べた。プロイセンが、乱立するドイツ国家の間でオーストリアを押しのけ主導権を握り欧州列強の座を固めることになったきっかけは、18世紀中頃の七年戦争での勝利だった。
この戦争は、プロイセンとオーストリアがシュレジエンの領有権をめぐり争いを始め、「プロイセン・ハノーバー・英国連合」対「オーストリア・フランス・スウェーデン・ロシア同盟」の対立によって激化した。この戦争でプロイセンは窮地に追い込まれ、フリードリヒ大王はいつでも自殺できるよう毒薬を常備していた。
ところがロシアのエリザベータ女帝が戦争途中で死亡した後、ピョートル3世が即位してから状況がひっくり返った。フリードリヒ大王を尊敬していたピョートル3世は、即位するやいなや、プロイセンに領土を含め戦争以前の状態に戻すことを何の条件も付けずに提案した。ロシアはプロイセンの敵国だったスウェーデンも説得し、戦争から離脱した。プロイセンはロシアの後援によってオーストリアを撃破し戦争に勝利した。
「ブランデンブルク家の奇跡」と呼ばれるこのどんでん返しは、ロシア側ではプロイセンを崩壊させ領土を拡大する絶好の機会を逃したピョートル3世の愚かさによるものだと評される。だが、実用的な勢力均衡策だという評価もある。プロイセンが崩壊すればオーストリアが中部欧州で唯一の列強になり、ロシアを脅かす可能性があることを阻止したということだ。
プロイセン側としては、東西両側に敵を作ったり2つの戦線での戦争は避けるべきだということが安全保障の基本前提になり、これは、プロイセンが統一したドイツでも続いた。ナポレオン戦争でロシアが勝利しパリまで進軍したことで、ドイツ地域に勢力の空白ができ、ドイツ統一も可能になった。
ビスマルクはドイツ統一後、欧州5大列強の関係がドイツにとって有利になるよう勢力均衡策を展開した。カギはロシアだった。英国は欧州大陸に決定的な瞬間にだけ関与するという伝統的な「栄光ある孤立」政策を展開し、フランスは普仏戦争でドイツの敵国になった定数であり、オーストリアは同じドイツ国家であり友好国という定数だった。結局はロシアをドイツ側に引き込まなければならなかった。ビスマルクの対外政策は、5大列強という5つのボールを回しながらそのうち3つをドイツ側に置く、難易度の高い「ジャグリング外交」だった。自身の在任期間中はロシアとの友好関係を常に維持し、ドイツの成長と安全保障を守った。
ロシアがドイツ側から離脱すると、両国だけでなく欧州と世界全体に災いが降りかかった。ビスマルクが退任した後、ヴィルヘルム2世がロシアとの再保障条約を更新しなかったため、ロシアは英国およびフランスと同盟を結ぶ三国協商に加わった。これは、ドイツが東西両側の2つの戦線で戦争する第一次世界大戦に飛び火した。アドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツも、「独ソ不可侵条約」を破りソ連と戦争をして崩壊した。
第二次大戦後、ドイツ統一はミハイル・ゴルバチョフのソ連が了承したことにより、平和裏に可能になった。当時のソ連は、NATOの東進禁止を条件にドイツ統一を許したが、このNATO東進問題は、現在のウクライナ戦争の主要な原因だ。
ヘンリー・キッシンジャーは、七年戦争、ナポレオン戦争、第二次世界大戦など、破局をもたらす危機のたびに突如として登場し勢力均衡をなすロシアの役割を、「ロシアン・パズル」と名付けた。そこから、「ロシアは見かけほど強くないが、見かけほど弱くもない」という外交家の格言も出てきた。キッシンジャーは、ウクライナ戦争がどのように終わるとしても、ロシアを認めないのであればユーラシア全域に巨大な混乱が一気に押し寄せることになると懸念している。ドイツの東方政策の設計者であるエゴン・バールは「ドイツにとって米国は不可欠で、ロシアは固定された」と述べた。
現在の欧州はドイツが主導している。「政治の秘密はロシアとの良い関係」という金言は、そのため現在の欧州でも有効だ。ウクライナ戦争によって欧州は現在、経済的にも政治外交的にも危機にある。欧州は米国とロシアの代理戦争になっているウクライナ戦争において、従属変数に転落している。ウクライナ戦争の終結において欧州の役割がなければ、世界は両大戦前夜のように、元に戻せない陣営対立に突き進むことは明らかだ。戦争が長期化すれば、中ロ連帯と西側同盟の間の対決が激化し、既存の勢力均衡は危機に直面するだろう。現在の世界での平和の秘密はロシアとの関係だ。
チョン・ウィギル|国際部先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )