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[寄稿]「アフガンの少女」は元気で暮らしているだろうか

登録:2021-08-28 07:51 修正:2021-09-04 07:15
イ・ジュウン|美術史家・建国大学文化コンテンツ学科教授
スティーブ・マッカリー『ナシルバグ難民収容所のアフガンの少女』1984、ペシャワール、パキスタン(左側)、スティーブ・マッカリー『シャーバート・グーラー』2002、ペシャワール、パキスタン(右側)//ハンギョレ新聞社

 ビフォー(以前)とアフター(以後)の写真を撮ることがたまにある。過去とまったく同じ背景と条件で現在の写真を撮ることを指すが、そのような写真を生産する主な場所のうちの一つは病院だ。たとえば、身体に何らかの問題が生じれば、数カ月間隔で超音波写真や断層撮影(CT)などを通じて推移を調べることになる。歯科、整形外科、皮膚科など顔の美容にむすびつく分野では、一般的なカメラで治療の前後を記録しておいたりもする。

 災害や戦争についてのニュースでも、時間の経過にともなう状況変化を一目で見られるよう、ビフォーとアフターの写真を提示したりする。例えば、新型コロナウイルス感染症の流行が終息すれば、おそらく新聞には「ついに終わった!」という一面記事とともに、終息前と終息後を示す資料写真が載せられるのは間違いない。一つは、新型コロナのためにマスクをつけた人々が歩いている荒凉とした街頭の写真で、もう一つは、笑顔で手を取りあう人々のあふれる活気に満ちた街頭の写真ではないだろうか。

 2002年4月号の米「ナショナルジオグラフィック」誌に、ある女性のビフォーとアフターの写真が公開された。これをみた読者は、17年前のある少女を思いだした。1985年6月に同じ雑誌の表紙のモデルとして登場した、名前の分からない「アフガンの少女」だ。恐怖で目を見開きカメラを凝視する少女の写真は全世界に広がり、人々の胸中にアフガニスタン地域の対立と難民問題の表象として刻まれた。

 少女とカメラレンズで向きあった人は、米国の報道写真家のスティーブ・マッカリー氏(1950年生まれ)だ。難民収容所で初めて見たこの12歳のアフガンの少女は、ソ連のヘリコプターによる侵攻で親を失った状況にあり、祖母、兄、妹とともに雪に覆われた山を越え、歩き続けて逃げなければならなかった。人生でふとすれ違った人に過ぎなかったが、マッカリー氏は米国に戻ってもずっと彼女が忘れられなかった。その間、アフガン国民は、腐敗した政権とタリバンの間で、果てしない苦痛を味わっていた。うわさをたよりに探すと、彼女を知っているという情報提供もあり、自分がその当事者だという人も、また、自分の妻が彼女によく似ているという人もいた。しかし、訪ねてみると、誰も記憶のなかのあの眼差しではなかった。

 米国が「9・11事件」を経験した翌年の2002年、マッカリー氏とナショナルジオグラフィックのチームは再びアフガニスタンに派遣された。それによって、マッカリー氏はついに「アフガンの少女」と再会した。過去の写真のおかげで、虹彩パターン認識での同一人物の確認が可能だったのだ。年月の跡は残されてはいたが、他人を警戒する強烈な緑色の瞳だけは変わっていなかった。名前はシャーバート・グーラー(1972年生まれ)、13歳で結婚し4人の子どもを産んだ30歳の母親だった。

 グーラーさんはずいぶん前に誰かが自分を写真に撮ったということは記憶していたが、自分の顔がそれほど有名になっていることは知らずに故郷で暮らしていた。ナショナルジオグラフィックのチームは慈善基金で家族の医療費を支援し、彼女がカブールで健やかに生きることを願い、そこを去った。それから再び19年が流れた。カブールは紛争の集結地になり、女性抑圧の因習はさらに深刻になった。

 ビフォーとアフターの写真を撮る時、私たちが得たいメッセージは何だろうか。過去と比べて現在はいっそう満足だという気分を享受したい時、ハッピーエンドを見せるためにはビフォーとアフターの写真が必要だ。息苦しく暗い時期は過ぎ去ったという安堵感、そして、今は自由で平和だということを自ら確認しようとする意図ではないだろうか。ありのままの変化ではない理想的な変化を、暗黙のうちに期待しているのだ。あの時31歳だったグーラーさんが今どのような姿なのかも気になるが、正直、彼女の現実を眺める勇気が出ない。むこうでの暮らしがより良くなったという確信がないからだ。

//ハンギョレ新聞社

イ・ジュウン|美術史家・建国大学文化コンテンツ学科教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1009228.html韓国語原文入力:2021-08-27 02:35
訳M.S

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