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[コラム]「統一部」に対する朴正煕元大統領と保守野党現代表の「バーチャル対話」

登録:2021-07-28 09:21 修正:2021-08-03 08:46
クォン・ヒョクチョル論説委員
1969年3月1日、朴正煕大統領が国土統一院の開院式で開院演説を行っている=国家記録院//ハンギョレ新聞社

 野党第一党「国民の力」のイ・ジュンソク代表は16日、日本の朝日新聞とのインタビューで、朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領を「最も尊敬する政治家」と述べた。ところがイ代表が廃止すべきと主張している統一部は、朴元大統領が作ったものだ。朴元大統領が属した共和党は1963年11月、第6代総選挙を控え「国家機関として国土統一研究機関を置く」という公約を掲げた。第6代国会が開会すると、共和党が主導して国会に国土統一研究特別委員会を設置した。この委員会は1967年1月の活動報告書である「統一白書」を発表し、国務委員(長官)が長を務める統一問題専門機構を政府組織として設置することを提案した。朴元大統領はこれを根拠に、国土統一院(統一部の前身)を発足させた。

 朴元大統領は1969年3月1日、国土統一院の開院演説で、統一部がなぜ必要なのか、統一部が今後何をすべきかなどについて詳しく説明した。この演説文を読んでみると、まるでその52年後にイ代表が持ち出した「統一部廃止論」に対する朴元大統領の答弁のように思える。そこで、統一部廃止論に対する「朴正煕-イ・ジュンソクのバーチャル一問一答」を作ってみた。イ代表の質問はメディアのインタビューなどを根拠に構成した。朴元大統領の答弁は演説文から引用し、一部は「統一白書」から引用した。

-外交業務と統一業務が分離しているため非効率的だ。実質的に役割と実績が曖昧な統一部が省庁として存在する必要はあるのか。

「(国土統一院が設置される前に)統一問題を政府の各機構で部分的にまたは断片的に扱ってきたが、体系的な業務にならなかった。外務部、外務長官直属の下位外交研究院、憲法機関である国家安全保障会議、中央情報部、公報部調査局第3課、内務部治安局情報課、以北5道庁、韓国反共連盟などが統一問題を研究し、対策を講じた。しかし、統一問題は彼らには付随的な業務に過ぎなかった。したがって、特定の時点で提起される必要性による短期的で一回きりの政策を生産するだけで、統一に対する長期的で総合的な政策の生産は実現できなかった。国土統一院が開院することで、統一問題を専門に担当し、総合的な政策推進が可能になった」

-韓国以外に他の分断国にも統一部のような組織があるのか。

「第2次世界大戦後に分断されたドイツ・中国・ベトナムなどと韓国を比較すると、彼らは民族統一を成し遂げようと彼ら特有の環境に応じた統一問題機構を設置している。昔からこのような国々は統一問題について研究し、様々な事業を推進していることを知っているが、統一問題はどの国を問わず非常に難しい問題だ。韓国は消極的で姑息な対北態勢の枠から抜け出せなかったせいか、統一問題の第1次作業である総合的で体系的な研究を担当できる機構がまだ設置されていない」

-統一部を置いたからといって、統一に特に近づいてもいない。

「もちろん(国土統一院があるからといって)直ちに統一問題が解決されるとは限らない。何らかの問題が議論され決定が出たからといって、明日から即、実践や執行に移されるわけでもない。統一問題はあくまで長期的に解決していかなければならないと思う。ちょうど、ある果物の木を植えてその木から果実を取るには長い間肥料とやり管理をしっかりと行い、数年後には必ずその木に立派な実がなるのを待つのと同じような心境だ。我々はいま統一という果樹の苗木の管理と手入れをちゃんと行うことで、たとえ私たちの世代に果物を得ることができなくても、次の世代は必ず摘み取れるような様々な条件を整えていかねばならない」

朴正煕大統領夫妻が1969年3月1日、国土統一院の開院式で、省庁の名前が書かれた表札を眺めている=国家記録院//ハンギョレ新聞社

 イ・ジュンソク代表は「南北関係は統一部ではなく通常、国家情報院や大統領府が直接管理した」とし、統一部無用論を主張した。1970年代にもあった主張だ。1972年の7・4南北共同声明、南北赤十字会談など1970年代に行われた重要な南北対話は、中央情報部が主導した。1976年10月の国会予算決算委員会で、当時の野党新民党のシン・サンウ議員は「有名無実と言われている統一院だが、長官は働ける他の場所に移って統一院を局に格下げする用意はないのか」と、ユ・サングン統一院長官を問い詰めた。ユ・サングン長官は政府組織法を引用して統一院の職務を説明した後、「対外的に発表できないことが多いため、外見的には微々たるもののように見えるが、統一院をなくしたら民族の念願である平和統一を達成することはできない」と反論した。最近、統一部廃止論に関する議論で取り上げられた話と似ている。1980年代にも「統一院は何をする省庁なのか」という無用論が続いたが、盧泰愚(ノ・テウ)政権は1990年に統一院長官を副首相に格上げした。統一部を作って拡大した朴正煕、盧泰愚政権は、さかのぼれば国民の力と根が同じである保守党が基盤だ。

 朴元大統領が南北和解協力に関する遠大な構想があって統一院を作ったわけではない。韓国では5・16軍事クーデター後、抑えられていた民間統一議論が再び起こり始め、北朝鮮は1961年に祖国平和統一委員会を設置して対南統一攻勢を強化した。当時、デタント局面など国際情勢も急変し、朴元大統領はこれまでタブー視してきた統一問題を統一院を通じて公論化しなければならなかった。1970年、朴元大統領の指示で大統領府の参謀たちが南北対話を検討すると、最高検察庁は「北朝鮮との対話を検討するだけで国家保安法違反で拘束できる」と反発した。このような内部の反発を意識して、朴元大統領は1971年に初めて南北対話に出て、このように述べた。「どんなに敵意を持った相手でも、その人の片方の手を握っていれば彼が自分を殴るかどうかわかるから、会話が必要だ」。朴元大統領が52年前に統一院を作った過程を、イ代表も考えてみてほしい。

//ハンギョレ新聞社

クォン・ヒョクチョル論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1005351.html韓国語原文入力:2021-07-27 19:03
訳C.M

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