北海道の小さな寺で住職に会った。住職はそこから遠く離れた山中のダム工事現場に強制動員された朝鮮の人々が多数犠牲になったという事実を偶然に知り、森の中に埋められていた遺骨を探し出し寺に迎えていると話した。犠牲になった方々の遺族に一刻も早く遺骨をお返ししたいのだがと、残念な気持ちを伝えた。すでにかなり以前の1989年のことだ。
住職と共に訪ねて行った白樺の森の笹が生い茂る土地のどこかに、今も多くの遺骨がそのまま放置されているという。日本で最も寒い零下42度にもなる酷寒の地に造られた朱鞠内(しゅまりない)ダムの工事中に犠牲になった人々だった。彼らの生死さえも知らずにいる家族を思った。悲しい思いを胸にその場で一つの約束をした。私が韓国に戻って人類学の教授になったら、学生や同僚と共に来て遺骨を発掘すると。それから数年が経った1997年、その約束を守ることができた。
遺骨を探す発掘作業は、地表面から測量し記録しながら一層ずつ土を掘って進められた。変色した土の痕跡、シャベルの跡、そして足跡までが鮮明にあらわれて、埋葬当時の情況が分かった。一つ二つと遺骨が見つかった。惨い遺骸だった。狭く、意外に浅いくぼみの中に、棺もなくうずくまった姿勢で埋められた遺骸。頭蓋骨破裂の跡がはっきりと残る遺骸。木の根に絡まり腐った関節を見て、過ぎ去った歳月に対する憾みと痛みを感じた。
犠牲者発掘の作業には、両国の専門家、活動家、大学生たちが参加した。加害者側と被害者側の共同作業は、特に両国の若者たちが、歴史的事実を一緒に確認し、日帝強制労働の真相究明と犠牲者問題解決のために努力する契機になった。日本側代表の住職の殿平さんは、遺骨発掘の意味を「死んだ人の声を聞くこと」だと話した。自身の手で掘り上げた確実な事実を目前に置いた時に、よみがえる歴史的真実が重要だということだ。遺骨発掘作業は単純に過去を記憶し追悼する作業ではなく、互いに異なる立場と価値観を理解して、和解と平和の未来を開くプログラムになった。両国の市民団体は、過去20年余りにわたり共に犠牲者遺骨発掘、遺族調査、現場探訪、文化理解プログラムを進め、記憶、追悼、和解、人権を主題とする平和運動を展開した。
しかし、北海道で私たちが収拾した犠牲者の遺骸は、2015年になっても遺族に返すことができなかった。遺骨の送還を協議した韓国と日本の政府が、独島問題などで繰り返し衝突してからは、この問題の解決のために努力しなかったためだ。安倍政権はもちろん、韓国の朴槿恵(パク・クネ)政権さえも、光復(解放)70周年より韓日協定50周年の意味を強調し、過去より未来に向かおうと話した。強制労働の生存者と遺族が一人二人と亡くなって、中壮年だった兄弟や子供たちもすでに老人になっていた。無念な犠牲に対する記憶はどんどん忘れられていったが、遺族の中には犠牲現場の一握りの土でも先祖の墓に埋めて差し上げてこそ自分も死ねると言う人もいた。その年の9月の秋夕(中秋節)、韓国と日本の民間団体は、それまでに発掘した115体分の遺骨を故郷に返す“70年ぶりの帰郷”を断行した。両国政府の無視と妨害を突き抜けて進めたことだった。
韓国から2回海を渡って北海道まで連れて行かれた犠牲者が絶望したというその海の道を再び戻り、釜山港で鎮魂路祭を行い、ソウルの市立墓地に安置した。犠牲者が暮らした故郷の家の入り口には、いなくなった人の名前と住所を銅板に刻んで置いた。「この町の人」の遅れた帰郷を知らせる「平和の踏み石」と名付けた。日本の強制労働現場にも、そこで犠牲になった人々の名前と犠牲の経緯を刻んだ銅板を置いた。国家権力が無視し消し去ろうとする平凡な人々の歴史的犠牲を、日常の生活空間でいつも新たに確認し、噛みしめることができるようにしたのだ。
しかし、まだ多くの魂が帰って来られずにいる。犠牲になった魂は、北海道の茂み、沖縄の洞窟、サハリンの凍土、南太平洋のジャングル、他国の国の寺や倉庫で骨や灰や土となって残り、解決されていない残酷な歴史を証言している。韓日国交“正常化”から55年、その間に両国の政府は朝鮮人強制動員犠牲者問題を傍観してきた。彼らと共に強制労働をさせられて犠牲になった連合軍捕虜や中国人徴用者の遺骨は、すでにかなり以前に故国に帰った。植民地である朝鮮の出身者は、死後にも差別を受けて捨てられた。名前まで奪われ、曖昧な統計数字として政治の駆け引きの対象になっただけだ。帰って来られなかった魂を記憶して追悼する作業は、両国関係を本当に“正常化”し和解と平和の未来に導く出発点になるだろう.
チョン・ビョンホ|漢陽大学文化人類学科名誉教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )