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[寄稿]停戦66周年、自主と和解を尋ねる

登録:2019-07-25 22:13 修正:2019-07-26 08:01

停戦体制下で別個に見えた韓米、朝米関係は、南北関係が重なって高次方程式に展開している。同盟は南北問題を世界戦略的な次元で窺っているが、南北は平和と統一という民族的観点をいつも念頭に置かざるをえない。

イ・マンヨル尚志学園理事長・元国史編纂委員長//ハンギョレ新聞社

 7月27日は、3年間続いた朝鮮戦争が“休戦”して66周年になる日だ。1953年3月初め、沈鬱だった校庭に、突然「スターリンが死んだ!」という歓声が弾けた。陸軍病院に転用された学校の運動場の片隅にテントを張って、60~70人が入って授業を受けた中3の時期、ソ連とスターリンに対してありったけの険しい言葉を浴びせていたので、「スターリンが死んだ」というニュースは、戦争が終わったという話と同じだった。しかし、その後も停戦会談は続き、1953年の6~7月に10万人余りの若者がさらに犠牲になった後に、停戦はなされた。数百万人を犠牲にした悲劇の上に成立した休戦、その66周年にはなったが、私たちは分断の状況を打開するために容赦と和解、交流と協力、平和と統一を悩んだのか、怨恨と復讐を誓ってきたのか。最近隣人により加えられている現実を見て、停戦後に私たちはどんな道を歩いてきたのか、自省の質問を投げてみる。

 66年前に停戦が成立した後、中立国監視委員会の撤収などの変化があったが、最近では板門店で世界の注目を集める事件が演出された。しかし、停戦はその次の段階の“終戦”や“平和条約”には一歩も進むことができなかった。1953年7月27日22時に発効した休戦条約には、朝鮮半島に平和を進展させるための内容があった。停戦協定第4条60項に明示された「停戦協定が調印され、効力を発生した後三カ月以内に…政治会議を招集し…すべての外国軍隊の撤収、および朝鮮問題の平和的解決の問題を協議することを建議する」ということだ。これに伴い、1954年4月26日からスイスのジュネーブで参戦19カ国が国際会議を開催した。議題は、朝鮮半島統一のための選挙、国際監督、外国軍撤収、国連の権威などだった。外相のビョン・ヨンテは、国連の監視下に土着人口比例による自由総選挙を施行するなど14項目の統一方案を提示し、北側は外国軍撤収、南北の兵力縮小、南北政府間平和協定締結のための委員会の構成を提案し、平和協定はこの時にすでに登場した。他の参加国も、平和・統一のための意見を陳述したが、その年の7月21日に成果なく閉幕した。この会談は、南北が一堂に会し統一方案を議論した最初の国際会議だったが、いかなる合意にも至らなかった。

 南北はその後、米・ソ陣営にそれぞれ編入され、冷戦体制の最前方を死守した。休戦ラインには絶えず緊張が高まり、南側の北進統一論と、北側の対南赤化論が対決した。南北が勢力均衡を成し遂げる頃の1972年、「7・4共同声明」が発表されたが、南北の政権担当者は、これを自身の権力強化に悪用した。南側の維新体制と北側の社会主義憲法がそれだ。南側が維新と新軍部体制を経ているとき、北側は高麗連邦制で攻勢を取ったが、ソ連と共産圏が解体される頃には南北高位級対話でお互いを認める協定を結んだ。南北基本合意書と朝鮮半島非核化宣言はこのような背景で発表された。

 1990年代中盤、北の核開発により、南北の共存のための議題は朝米間の“核問題”に押しやられることになった。朝米間の長く険しい核葛藤は、ジュネーブ交渉で軽水炉の建設によって解決段階に入るかに見えたが、後日米国がひっくり返してしまい、6カ国協議を通じて「9・19共同声明」、最近ではシンガポール会談にまでなったが、米国は受け入れなかった。朝鮮半島の地政学的利害関係のためなのか、米国が北朝鮮核問題の解決を先送りしているという疑問は筆者だけのものではない。北朝鮮核問題が国際化した後、南北問題を民族的次元で解決するということはさらに容易でなくなった。

 停戦以後、南側は韓米同盟を後ろ盾として経済成長に努力した。産業化を名分に独裁と軍事政権が登場したが、4・19からろうそく革命まで、民主化闘争は絶えることはなかった。世界10位圏の経済成長が可能だったのは、人間の創意性を保証する民主化運動が併行したためだ。南側が経済成長を成し遂げる間に、北側は先軍政治と核開発にまい進した。しかし、分断体制の中で発展させてきた南の経済成長と北の核開発は、そろって制裁を受けることになった。今後も南側が経済成長を通じて福祉国家の理想を実現できるか、北側も“核保有”で主体思想を実現し、人民の平等を成就できるか、容易ならざる課題だ。最近南側に加えられた日本の貿易制裁は、遡れば日本が材料・部品を日本に依存するよう設計した1965年代の対日請求権受注方式から緻密に計画されたものだ。韓国経済が成長すればするほど、材料産業は対日依存に収束され、貿易黒字が増えても対日貿易の赤字幅は減らなかった。そこに貿易の外的要因が重なって、今回の事件でさく烈したのではないか。この事態が材料・部品の対外依存度を減らし、多角化させ国産化比率を高める契機になるならば、禍を転じて福となすに他ならない。

 南北の鉄道・道路連結と、開城(ケソン)工業団地・金剛山(クムガンサン)問題で、南北和解と韓米同盟の道が一致せず、主権国家の限界を痛感して驚く。結局、軍事主権の問題という戦時作戦権問題ともつながるのではないか。これは、臨時政府が中国領土内でも光復軍の独自指揮権を行使したことと対比され、金ユ信(キム・ユシン)が羅唐連合軍の伎伐浦(キボルポ)作戦で見せた姿勢にも遥かに至らない。新羅軍は熾烈な荒山大捷で唐の将帥、蘇定方との約束期日を破った。蘇定側がこれを口実として、新羅の先鋒将の金文穎(キム・ムニョン)を処断しようとするや、金ユ信は決然とした態度を見せた。「このような侮辱を受けるならば、必ず先に唐の軍隊と決戦し、後に百済を破る」(三国史記5、太宗武烈王7年)このような決意は、同盟関係で持たなければならない基本ではないのか。政府樹立後70余年間にわたり同盟に“献納してきた”戦時作戦権は、相互の負担を減らすためにもその移管を急ぐべきだった。「対米自主性の回復を通じて主権国家の面目を回復すること」(ハン・ホング)は、口先だけの言葉ではない。それで停戦66周年に、自主国防はどこまで来ているのかを尋ねる。

 停戦体制下で別個に見えた韓米、朝米関係は、南北関係が重なって高次方程式へと展開している。同盟は南北問題を世界戦略的な次元で窺っているが、南北は平和と統一という民族的観点をいつも念頭に置かざるをえない。民族史的指向と世界史的展望が反する時、南北の和解・統一の道は方向を失いやすい。このような時に同盟を説得し、和解・統一の民族的指向と調和させるのは私たちの持分だ。66年も経てば、自由往来を実現し先祖の墓でも参れるようにすることが、南北に政権が存在する理由ではないだろうか。まずは世論の収斂を通じて私たち自身の葛藤と分裂、憎悪と怨恨を止めることだ。和解と容赦は、南北・南南同士の共同体で同時に実現しなければならない優先課題だ。平和と統一が急がれるほど、和解と容赦は回り道に見えても一番の近道だ。停戦66周年が、それを呼び覚ます一つの契機になれば良い。

イ・マンヨル尚志学園理事長・元国史編纂委員長

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/903384.html韓国語原文入力:2019-07-25 19:06
訳J.S

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