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[社説]栄誉と恥辱の人生の金鍾泌元首相、勲章授与は慎重に

登録:2018-06-25 14:09 修正:2018-06-25 15:37
現代峨山病院の葬儀場に設けられた安置所に金鍾泌元首相の遺影が置かれている//ハンギョレ新聞社

 金鍾泌(キム・ジョンピル)元首相が波瀾万丈な人生を終えて永眠についた。政界では産業化と民主化ともに貢献した「政治の巨木」という賛辞が相次いだ。政府も国民勲章の中で最高のムグンファ賞叙勲の方針を明らかにした。「JP(金鍾泌)」という名称の方がなじみのある彼の人生は、「永遠の二番手」「政治9段」「世渡りの達人」などとつけられたあだ名のように栄誉と恥辱が交錯してきた。

 金大中(キム・デジュン)、金永三(キム・ヨンサム)二人の元大統領と共に「3金時代」の一つの軸を担った彼が韓国現代史に残した足跡は大きい。1960~70年代、政府主導の経済開発を通じて産業化を進展させるのに相当な役割を果たした。1997年の大統領選では、金大中と「DJP連合」を通じて初めての水平的政権交替を成し遂げ、政治の発展にも寄与した。「朴槿恵(パク・クネ)、チェ・スンシル国政壟断事件」が取りざたされた2016年には「朴正熙(パク・チョンヒ)大統領とユク・ヨンス夫人の悪い点だけ受け継いだ」と朴槿恵前大統領を批判した。

 しかし、彼が落とした影ははるかに大きく深い。陸軍中佐だった1961年、彼は妻の叔父にあたる朴正熙と5・16クーデターを起こした。4・19革命を踏みにじり、人権蹂躪の象徴である中央情報部を創設して初代部長になり、共和党の創立を主導して「維新」独裁の道を整えた。中央情報部は拷問、捏造、政治介入、金大中拉致事件など数多くの悪行を犯した。彼は1972年10月の「維新」宣言前後に4年6カ月間総理を歴任した。彼が対日請求権の問題を拙速合意した韓日国交正常化は「6・3デモ」を招き、いまだに韓日関係の障害物として作用している。

1989年10月9日当時、(右から)金大中平和民主党総裁、金鍾泌新民主共和党総裁、金泳三統一民主党総裁が会談を開き、年内の第5共和国の清算を誓っている=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 新民主共和党を創党して1987年の大統領選に出馬した彼は、その後、地域感情を利用してあおった。特に1990年の盧泰愚(ノ・テウ)、金泳三両氏と共に行った「3党合併」は、巨大な民自党と全羅道圏を基盤とした平和民主党の対決構図を作り、「慶尚道圏の保守覇権主義」を固めさせた。民自党を離党して自由民主連合を創党した彼は、1995年の6・27地方選挙で「忠清道の田舎者論」で地域感情を露骨化させ、忠清圏の盟主として政治生命を維持した。

 彼は、慶尚道圏の保守覇権に寄り添った自由韓国党が事実上壊滅し、釜山、蔚山、慶尚南道で民主党の広域自治体長が当選するなど国民が地域主義を破った今年の6・13地方選挙の10日後に死亡した。一時代を風靡した政治家として、彼を追悼することを恨む理由はない。ただし、最高勲章を追叙すべきかは疑問だ。政府は統合の象徴を意識したのかもしれない。しかし、最終決定に先立ち「反対請願」などに込められた批判の世論も留意するよう願いたい。

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/editorial/850430.html 韓国語原文入力:2018/06/24 18:27
訳T.W

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