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[なぜならば] 忘却か知らぬフリか:嶺南(ヨンナム)大事件の場合/チェ・チャンシク

原文入力:2012/03/07 22:03(3180字)

朴正熙のもう一つの‘贓物’靑丘大学

 このごろ毎日のように "贓物正修奨学会" の話が言論に出てくる。 だが、大邱(テグ)の‘嶺南大学校’は関心外に置かれている。 この大学の前身中の一つである‘靑丘大学’の設立者である也靑(ヤチョン) 崔海淸(チェ・ヘチョン)はかなり以前にその大学校を "贓物" と呼んだという話だ。 1300余ページに及ぶ<嶺南大学校50年史>には靑丘大学を設立者から受け継いだと叙述されているがそれは嘘だ。

 1987年民主化運動以後の1988年、国政監査で嶺南大の成立過程が厳しく糾弾された。 また、2005年には国会でぺク・ウォンウ議員が学校の定款に‘教祖 朴正熙’と記されていることを問題にしたが、国民の黙殺の中で埋もれた。靑丘大学設立者が亡くなる前に語ったように 「掌で雨をふせぐこと」がいつまで続くのだろうか? 今回ついに民主統合党のキム・ブギョム議員が再びこの問題を取り上げた。その勇気にも驚くが、これは歴史の必然だ。

設立者の意とは異なり嶺南大に統合された靑丘大学…
朴正熙大統領が指示したわけではないが
その‘贓物’を鷲掴みにして情報部を動員し
見過ごさせたのは彼だった

 この間、この問題を握りつぶそうとする雰囲気のために事件の経緯が世の中に良く知られていないのが事実だ。 ここでその概略に目を通そうと思う。靑丘大学は5・16軍事クーデターの後、軍事政権から被害を受け始めた。 10年余り4年制大学として運営された学校を‘物理的定規’で評価して2年制大学に降格させた。軍部の個人的な感情や故意ではなかったが、クーデター直後の各種整備事業を通じて成果を誇示しなければならない状況でこういう無謀なことを犯したのだ。しかし、設立者のショックは大きかった。 幸いその年の卒業生の成績が全国4位に上がるなど、実力が証明されて4年制に復帰することはできた。(一時、土木建築分野で漢江(ハンガン)南側に靑丘大学を筆頭に選んだ。) だが侮辱を受けた設立者は併設学校を作り、他校を合併して、校庭を拡張するなど各種財政支出を増やさざるを得なかった。これは政府の誤った教育政策が学校を亡ぼした一つの良い例となるだろう。

 しかし設立者がソウルなど外部への出張が多く席を外すことが多くなると、ある経理職員が不正を犯した。これに対し学校財政は途方もない損失をこうむる。(この事件は当時校内でも公認された事実だ。) 設立者・学長はわざわざソウルから計理士を招へいして経理監査を委託した。

 学校は本来、学校を建てるために基金を集め、理事が集まり学長を招へいすることが常識だ。 だが、靑丘大学の場合は話が違う。 設立者がある言論人と意気投合し‘独立運動’を再びしなければならないとし‘独立運動局’を設置し、大衆学術講座を開催したところから始まった。 1947~48年当時、この国の社会像が新たに独立運動をしなければなければならないとし‘独立運動局’という看板を掲げることがおかしくなかったのだ。 講座が終わった後、聴講生の情熱のために永久的な施設として成人教育機関を設立することになった。 設立者は理事を募集し、自身は学長、すなわち最高経営者として陣頭に立って18年間 心血を注いで経営に没頭した。 ところが1966年12月末、上で述べた財政難と共に校内人事問題などが重なって突然、理事長チョン・ギス氏は理事会を招集し学長を解任させる。以前にはなかったことだった。 初めから全てのものを設立者である学長に任せた体制であり、まさに設立者は理事会を改編しようとするところにこういう事態が起こったのだ。 しかしこの時も靑丘大学自らの存亡は問題にならなかった。 彼らは設立者を‘名誉学長’として迎え諮問にだけ応じてほしいという態度であった。

 問題は1967年6月15日、建築中の新校舎が崩壊し死亡者が発生して起きた。建築物の設計を巡り刑事問題が突出したのだ。 設立者は1966年末、新校舎建設に着手したが、それは元々3階建ての設計であった。 だが、新しい経営陣は欲を出して6階建てに作りあげるために設立者の介入を何が何でも防がなければならない立場だった。 彼らは苦心の末に学校を大統領府に進上する自救之策を編み出すことになる。 設立者には一言半句の相談も無しに大統領府の主人に進上したのだ。

 当時、朴正熙大統領は設立者と深い仲だった。設立者は彼に会うために必死のあがきをつくしたが、1977年に亡くなる時まで大統領府は鉄門を閉ざしたように会おうとはしなかった。 クーデター直後には故郷の先輩として設立者に諮問をするまでの関係だったという話だ。 設立者は市民の署名を集めて大統領との面談を成功させようと試みたがこの時、中央情報部が出て来て静かにしていろとの恐喝・脅迫をした。 初めは志のない幹部教授と理事会が過ちを犯したところから始まったことであり、大統領が持って来いと言ったわけではなかった。 しかし‘贓物’を鷲掴みにして中央情報部を動員し、それを見過ごさせたのは他ならぬ大統領だった。(学校問題をなぜ校内で解決しないで政治権力に持っていったのかと主謀教授らを叱責した人がいたが、それは国文学者チョ・ユンジェ博士であった。) 従って嶺南大学設立問題を‘私学紛争’に含ませること自体が誤った分類だ。 これは一個人が大統領府という絶壁に対抗した孤独な戦いだった。

 1967年末にはイ・ビョンチョル氏(訳注:三星創業者)が受け持っていた‘大邱(テグ)大学’を持ってきて(大邱大設立者の同意なしで)イ・フラク氏(訳注:李厚洛,当時、大統領秘書室長)は両大学を併せて‘嶺南大学校’と名付けた。 その後、朴正熙の‘王立大学’として振る舞った。 しかし設立者の立場で見る時、その学校は初めから一つの‘贓物’に過ぎない。 18年間、心血を注いで積み上げた靑丘大学を設立者の手から根こそぎ奪い取ったのだ。 大邱大学側も崔浚(チェ・ジュン)先生の家産を管理の失敗のために全て失ってしまったことを訴えている。 私が一度、名前を名乗らずに嶺南大同窓会を訪ねたところ、学校のある幹部が「私たちは絶対に過去の話をしないことにしています」と言った。 仮にも学校としては嘆かわしく笑わせる言葉だった。 過去を隠してこそ生き残る学校だなんて。

 ‘王’が逝った後にも‘王立大学’を支えてきたのは歴代教育部の‘教育精神’が陥った教育行政のなせる業であり、大衆の知らぬフリと黙殺のためだった。 幸いなのは、初めて靑丘大学を大統領府に渡したある幹部教授が「大きな誤り」だったと良心宣言を残して亡くなったことだ。

 また、一つ書き残したい話がある。 往年に名を馳せたある言論人が、朴大統領にどうして深い仲の靑丘大学の誰それにそのように対するのかと尋ねると、彼は「その人は私に‘あんた’と言った」ということだ。設立者は朴大統領と二人きりで車に乗り、慶州に向かう途中、朴大統領をそのように呼んだことがあるという。

 英語に‘敵は私たちだ’(Enemies are us)という言葉があるが、果たして敵は私たち全員だ。 ただし、朴槿惠セヌリ党非常対策委員長は両親に対して親孝行この上なく、原理原則にも徹底しているようなので、そこに期待するところが大きい。

チェ・チャンシク也靑先生記念事業会会長

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/because/522445.html 訳J.S