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「平凡な人たちがある日突然死んだ」
2月24日、ロシアがウクライナに対する戦争を宣布してから3日後の27日、ロシア軍はベラルーシを通じて南下し、ウクライナの首都キーウに向かった。首都から30キロ離れた北西の小都市ブチャはそのルート上にあった。ウクライナ軍はロシア軍の最初の進入を阻止したが、ロシア軍は3月3日、再びブチャの北西側から進入してきた。首都包囲作戦の一環だった。ロシア軍がウクライナ軍に押されてキーウから撤退した3月末までの約1カ月間、ブチャはロシア軍の軍靴に踏みにじられた。
ドミトロさんはロシア軍がブチャの町を破壊しつくした1カ月を忘れることができない。ドミトロさんの知り合いは何人も命を落とした。その中には友人のルスランさんがいる。ドミトロさんがロシア軍に拉致された3月15日頃、ルスランさんは14歳の息子ユラ君と一緒に食べ物を求め外に出た。「お前たち、どこへ行くんだ」。ロシア軍が尋ねた。「パンを探しに」。答えは無意味だった。突然銃弾が飛んできた。バン、バン。父親のルスランさんはその場で頭を撃たれて倒れた。息子のユラ君も一緒に倒れた。ところが、運が良かった。弾丸がユラ君のフードパーカーに当たって外れたのだ。気絶したユラ君が目を覚ました時、父親は横に倒れていた。弾丸は正確に父親に当たっていた。ユラ君はすぐに家に駆けつけた。ユラ君は母親と一緒に父親の遺体を収拾しに行ったが、ロシア軍が許可しなかった。「道端に倒れた遺体を放置しておくだけでも人々に恐怖を与えられると思ったようです」と、ドミトロさんは語った。
ドミトロさんの友人は、車に乗っている途中にロシア軍の銃に撃たれて死亡し、2人の子どもと一緒に車に乗っていた女性も同様に殺された。ロシア軍はこの女性の車を燃やした。ある家の車庫には住民たちが隠れていたが、ロシア軍がやってきた。兵士たちは換気口に手榴弾を投げ入れ、炎は3日間消えなかった。車庫の中には6人がいた。彼らの遺体は形態が分からないほど燃えてしまった。ブチャは、このように凄惨に損なわれた遺体の身元確認に、いまも困難を抱えている。
開戦からロシア軍退却まで、ブチャ市の人口5万人の大半が都市を抜け出していた。最後の瞬間には3000~4000人程だけが残っていた。病気だったり、高齢で動けない人たち、世話をしなければならない家族がいる人たち、村を離れても行く所がない人たち、そして、戦争にうんざりして「もう死んでも生きても構わない」と自暴自棄になったごく少数の人だけが残った。ロシア軍は3月末にウクライナ軍に押され退却する瞬間まで、理由もなく人々を攻撃した。ドミトロさんの友人は3月30日、村から出ていこうとしていたロシア軍に足を撃たれた。弾丸が足を貫通したが、幸い命は助かった。ロシア軍は恐ろしい痕跡を残した。ある家には子どものベッドの下や、キッチンの電子レンジの中、周辺の草むらに地雷を設置した。2カ月が経った今も、ロシア軍が設置した地雷や不発弾が爆発し、人命被害が発生したというニュースが流れている。
ロシア軍が全員退却した後の4月1日。ドミトロさんは町のスーパーの前だけでも、道に捨てられた5体の遺体を見かけた。ある中年女性は、ショッピングモールの前で銃に撃たれて倒れていた。遺体は3月の間じゅうずっと、冷たい地面に横たわっていた。6月15日現在、ブチャでは少なくとも420体の遺体が発見されている。「平凡な人々がある日突然死んだ。何の理由もなく、あまりにも簡単に」。ドミトロさんは語った。
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3月の悪夢…「いつ戻るか分からない」
ブチャ市役所から歩いて5分の距離にあるドミトロさんのアパートの地下室には、3月の1カ月間苦しんだこの町の人々の暮らしがそのまま保存されている。アパートの入り口の隣の階段を下りると、約15坪(50平方メートル)ほどの部屋が3つ連なる地下室が現れる。地下室のドアを開けると真っ暗だった。普段ならまず経験することのない、完璧な闇だ。半袖でむき出しの肌にさっと鳥肌が立った。かびくさい埃のにおいがした。数歩進むと、地下の部屋からも10段ほど下るさらに真っ黒な空間から、鼻を突くすえた匂いがした。近づくと「ウィィン…」とハエが飛び立った。ドアもなく仕切りもない「トイレ」だった。
携帯電話のフラッシュをつけて迷路のように数歩を踏み出した。取っ手のない鉄門には、赤い文字で「子どもたち」と書かれた白い紙が貼ってあった。ドミトロさんはこのような真っ暗な闇に慣れているかのように、迷いなく進んでこの部屋あの部屋と案内した。「ここが寝室です」。ドミトロさんの2人の娘はこの部屋で、20人余りのアパートの住民と共に1カ月を過ごした。片方の壁に付いている少し高いベッドには、いまも布団と枕が積み重なっている。ドミトロさんの長女が使っていたベッドだ。「いつ、またここに戻ってくるか分からないので、ひとまず一部は残しておいたんです」。ドミトロさんが説明した。
小さな通路を通って別の部屋に入ると、簡易台所があった。棚にはまだ包装を開けていない果物のジャムやピクルス、漬物、オートミールの瓶がそのまま置かれていた。五色のマシュマロ、バターなどはビニール袋に入ってきちんと置かれ、10個の卵入れには卵が3つ残っていた。お茶、コーヒー、各種ソース、そしてまな板の上で切っていたバゲットの切れ端まで、まるで誰かが今朝この台所で料理を作って食べたかのようだった。床には、子どもたちのものと思われるアメとお菓子のつまった箱があった。
埃の積もったセメントの床には、開封していない飲み物や水、飲み残した酒瓶10本ほどが置かれていた。渇きと寒さ、恐怖に耐えるのを助けてくれた「燃料」だ。机の上には縦横30センチ・15センチほどの小さな電動機、使いかけのろうそくがいくつか置かれていた。片側の壁にはダーツゲームのボードと時計がかかっていた。
もう一つの壁にフラッシュを当てると、緑色の草と木がいっぱいの絵、そしてその前にはイエスと聖母マリアの絵が置かれ、きらきらと光を反射していた。ブチャの人々が闇の時間に耐えることができた、一筋の希望の光のように見えた。