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[インタビュー]原爆はどの国の人でもすべて殺してしまう

登録:2016-05-21 01:57 修正:2016-05-21 11:27
平岡敬・元広島市長
市長在任中の1991年に「広島平和宣言」で日本の植民地支配の問題に初めて言及した平岡敬元広島市長は19日、「過去を忘れたら、未来もない」という明確な歴史認識を示した=キル・ユンヒョン特派員//ハンギョレ新聞社

27日、米国のバラク・オバマ大統領の広島訪問を控え、彼が広島平和公園内の「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」にまで足を運ぶか注目が集まっている。広島市が毎年8月6日(原爆投下日)に発表する「広島平和宣言」で、日本の植民地支配問題に言及した平岡敬・元市長に、オバマ大統領の今回の訪問をめぐる広島の雰囲気と韓国人・朝鮮人問題に対する見解を聞いた。平岡氏は子供の頃、朝鮮に住んでいた経験などがきっかけで、日本で初めて韓国人・朝鮮人被爆者問題を記事に書いた人物でもある。

 27日に予定された米国のバラク・オバマ大統領の広島訪問をどう捉えるべきか、韓国の世論が大きく揺れている。核のない社会を作るというオバマ大統領の理想には共感しながらも、今回の訪問が加害者としての日本の責任を軽減することになるのではないかという不安からだ。歴代広島市長の中で唯一「広島平和宣言」に植民地支配の責任に言及した平岡敬・元広島市長(89)は、「オバマ大統領は謝罪しなければならない」との見解を明らかにし、「過去を忘れたら未来もない」という明確な歴史認識を示した。オバマ大統領の訪問を一週間後に控えた19日、広島で平岡氏に会い話を聞いた。

 - 子供の頃に朝鮮半島と縁があったと聞きました。

 「両親は広島出身だ。大阪で結婚し、1927年に私が生まれた。父は小学4年の時に朝鮮に渡った。朝鮮の雄基(ウンギ、現在の北朝鮮の咸鏡北道地域)で木材関連の事業で成功した母方の祖父が、父を呼び寄せ石炭関連の仕事を任せた。雄基、穏城地方に炭鉱(有名な阿吾地炭鉱が周辺にある)があった。その炭鉱を経営し、石炭を羅津(ナジン)港から日本に運ぶ仕事をしていた。初めて雄基に行った時、スズランの群落が咲いているのが印象的だった。毛ガニが多く、蒸したものを山のように積み上げて食べた。父も若かったし、会社の社長のような仕事を任されていたので、今思うと、贅沢な生活をしていた。植民地支配など、歴史問題に対する認識は全くなかった」

■1965年に韓国・朝鮮人被爆者問題を日本で初めて報道

 - 当時の朝鮮にはどんな思い出が?

 「ソウルの京城中学校(日本人学校)に受験して入った。理由はわからないが、少し生意気だったからか、教師たちにかなり殴られた。だから、学校が嫌だった(笑)。教育には朝鮮人蔑視のようなところがあった。『私たちは日本人だから朝鮮人に見下されてはならない』といつも言われていた。 1年生の時に、洋食のフルコースの食べ方を学んだ。朝鮮人に馬鹿にされないためにも、ヨーロッパのマナーを学んで身に付けようということだった。戦争中だったので(食べ物は出ず)紙に印刷したお皿とナイフを置いて勉強した。

 学校が嫌いだったので、中学4年の時(当時中学校は5年制だった。4年生から上級学校への進学が可能だった)、陸軍士官学校や海軍兵学校に行こうとした。ところが背が低くて(進学できず)、1944年に京城帝国大学予科医学部を受験して合格した。父は、私が長男だから、戦争に連れて行かれて死なないためには軍医になるべきだと言っていた。1945年4月からは、中学校以上の学生は全員動員され、工場で働かされるようになった。戦争で労働力が足りないため、子供にまで仕事をさせたのだ。私は興南(フンナム)の日本窒素工場で働いていた時、敗戦を迎えた。それから8月20日頃、京城の家に帰ったら両親は見当たらず、近所に住んでいた(韓国)人がいた。彼は『この家は私が引き取った』と話した。仕方なくカンナン町(現在の漢南洞)の別荘に向かった。そこに両親がいた。当時は歴史認識は全くなかった。戦争で負けた後も「私たちは居留民として残ることになるのではないか」と言う人たちもいた。安易な考えだった。朝鮮が独立をしたら、私たちはどうなるのか考えたこともなかった。ここで生まれ育った人たちもいたので、(朝鮮も)当然私たちの領土だと思っていた」

 - その後、日本に帰り、1952年に広島を拠点とする中国新聞に入社したのですね。

 「以前、京城予科2年生だったから、日本では旧制高等学校2年生に当たる。広島高校に入って早稲田大学でドイツ語を専攻した。家の経済事情が悪く、医学の勉強を続けることができなかった。当時は日本も就職難だった。父に『広島に帰ってきなさい』と言われ、中国新聞に入社した。当時は、良い記者が戦争で死んだり、戦後のレッドパージで会社から追い出されていた。上の先輩がいなくて、かなり早く出世できた(笑)」

 -1965年に韓国・朝鮮人被爆者問題を初めて報じられました。

 「1965年に日韓国交正常化が行われた。韓国に縁もあり、国交正常化をしたからには記事を書くべきだと考えた。会社に企画書を出したが採用されなかった。当時、海外に特派員を派遣しているのは、共同通信や朝日新聞のような大きな会社だけで、海外出張に出かけて記事を書くのは不可能だった。その前年に韓国・朝鮮人被爆者問題に関する手紙をもらったこともあり、何かしなければと思った。そこで休みを取って韓国に取材に行った。写真1枚を入れた記事に会社から5000円の原稿料をもらうことにして、12月に10回の連載記事を書いた。そのお金で往復のチケット代を賄った(笑)。

 その時初めて韓国人被爆者に会って記事を書いた。友人に岩波書店社長を務めた安江良介(1935〜1998)がいる。中国新聞の記事は広島でしか読めないから、「世界」にも書いた方がいいと言われて、翌年の1966年2月号に掲載した。そうすると韓国の領事館が敏感な反応を見せた。当時、韓国は朴正煕(パクチョンヒ)軍事政権時代だったので、「世界」を(韓国に)持ち込めなかった。韓国のビザを申請すると簡単に出るのだが、私の場合は下関の領事館に呼ばれた。領事館で『平岡さん、韓日の友好のために良い記事を書いてください』と言われたことを憶えている」

市長在任中の1991年 
「植民地支配、申し訳なく思う」という内容盛り込んだ 
広島平和宣言を発表 
右翼たちが押し寄せて抗議したことも 
「申し訳なく思う」ではなく「過ちだった」と言うべきだった 

被爆者には38度線がない 
民団と総連の統一碑建立は挫折 
核兵器容認しようとする安倍首相の野心 
「オバマ大統領、日本人ではなく 
他の被害者もいたことを知るべき」
 

■平和宣言に参加後、右翼の激しい抵抗に遭う

 - 記事の反響はありましたか?

 「あまりなかった。日本の被爆者運動が韓国・朝鮮人被爆者の問題に関心を持つようになったのは1975年からだ。それまでは誰も相手にしなかったし、関心がなかった。私は韓国で生活したこともあり、歴史を学んで『日本に責任がある。これに目をつぶってはならない』と考えた。誰もが『日本人は被害者、被害者』と言うだけだった。しかし、日本は加害者でもある。このようなことを自覚しないで口にする平和はインチキというのが私の一貫した主張だ。日本全体がアジアを蔑視してきた。だから、平和を訴える広島は、アジアではなく、ほとんどヨーロッパやアメリカの方に向かった。特に、ヨーロッパは冷戦期だったので、誰もが核の恐怖に苦しめられていた。私は、広島の平和はアジアの理解を得られる平和でなければならないと考えていた。しかし、韓国人被爆者の話をしても反応がなく、革新系団体も拒否反応を見せた。韓国は軍事政権であり、米国の傀儡政権ということだった。私は『それでも、人が、被爆者が生きているではないか。それなら手を差し伸べるべきだ』と訴えた。今思えば不思議な話だが、当時の日本ではそのような雰囲気がずっと続いていた」

 -1991年の市長在任中に広島平和宣言で初めて植民地支配の問題に言及されました。

 「私は市長になった当時、1994年に広島アジア大会を開催することが決まっていた。私はアジア大会を開くというのに、アジアに謝罪せず、大会だけを行うのは意味がないと思った。アジアとの相互理解を深めるきっかけにしたいと思っていた。そこで『日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人びとに大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う』という内容を盛り込んだ。当時、全国から右翼が押し寄せて市庁を囲み、家にまで押しかけて大騒ぎだった。後で家内が近所に謝罪して回った。

 右翼の抵抗が激しかった。彼らは『死んだ英霊たちにあり得ないことだ。私たちは侵略したのではない』と主張した。本当は申し訳なく思うのではなく、『過ちだった』と言うべきだった。すると『この宣言は平岡個人の見解なのか、それとも広島市民の見解なのか。広島市民はそうは思っていない』と言われた。だから『私は選挙で選ばれた市民の代表』と言って押し通した。その前年に長崎市長の本島等氏(1922〜2014)が(天皇にも戦争責任があると思うという発言で右翼に)銃撃されたこともあり、私も危害を加えられるのではないかと、少し脅威を感じた」

 - 日本社会が韓国・朝鮮人被爆者の問題に関心を持つようになったきっかけは、孫振斗(ソンジンドゥ)裁判(韓国人被爆者の孫振斗氏が被曝治療のために、1970年に日本に密航した事件。これと関連し6年間の長い裁判が続く)だったのでしょうか?

 「何かきっかけが必要だったが、たまたま孫振斗氏の密航があった。孫振斗氏と関連して(密航者という)あまり良くない話もあった。私は『被爆者は良い人だけではない。良い人も悪い人も老若男女問わず無差別に被爆する』と話した。孫振斗氏の写真を持って(彼が以前住んでいたと主張した広島市内の)南観音地域に行った。藤井と松浦という二人が「これは光山(孫振斗氏の日本名)」と証言してくれた。被爆者であることが証明されたため、支援を始めた。私は(新聞社での肩書きがあったため)前面に出られず、主に裁判のための資金を集めることをした」

 -1999年の市長在任末時に広島平和公園の外にあった韓国人原爆被害者慰霊碑を公園内に移転させました。

 「碑の建設を始めた頃には、様々な内部事情があった(必ずしも差別のため碑が公園の外に建てられたわけではないという意味)。しかし、広島に来る人は誰もが差別だと思っており、子供たちまでも、なぜ差別をするのかと言っていた。いちいち言い訳ができない状況になった。移転するのに民団(当時の在日本大韓民国居留民団)が乗り出すと、総連(在日本朝鮮人総聯合会)が反発するので、碑を作った人に個人資格で市庁に陳情を入れるように頼んだ。これを根拠に内部に移した。被爆者には38度線がない。民団と総連を網羅する統一碑を建てようという動きもあったが、実現しなかった」

■「戦争をしない」というのが広島の哲学

 -27日にオバマ大統領が広島を訪問します。

 「私は彼が広島で謝罪をしなければならないと思う。しかし、彼の立場もあるから、謝罪はしないだろう。それなら、何をしに来るのかという疑問が生じる。米国の大統領として訪問する以上、私たちが必要とするのは謝罪、または原爆投下が正しかったどうか見解を明らかにすることだ。オバマ大統領は2009年のプラハ演説以降、核兵器の撤廃と関連し、大きな成果を出せなかった。演説以降、7〜8年の間に何をしてきたのか。結局、政治家としての自分の名誉のために来るのではないかと思う。そのうえ時間の問題で被爆者とも面会しないと言う。日本政府も、はじめから謝罪を求めておらず、広島県知事や市長もそう言っている。憤りを感じる。オバマ大統領が自分の名誉のための花道を飾るために来るのであれば、広島に少し失礼ではないかと思う。しかし、退任後に個人として再び広島に来て、原爆被害について申し訳ないと言うなら、彼を許せるかもしれない。

 もう一つ、今回の訪問に安倍晋三首相が同行する。安倍首相は、自分の支持率を高めたいだろう。しかし、オバマ大統領と安倍首相の思想は完全に異なる。安倍首相は、核兵器を容認し、これを欲しがっている。また、(昨年9月の安保法制の制・改正で)戦争できる国にした。広島の哲学は、『戦争をしない。核の抑止力を否定する』というものだ」

 - 韓国人慰霊碑への訪問問題に注目が集まっています。

 「多分時間がないといって行かないだろう。オバマ大統領には期待し過ぎてはならないと思う。ただし、日本人ではない他の被爆の犠牲者がいることをオバマ大統領も知って欲しい。原爆は、国籍に関係なく、すべての人間を殺してしまうものだ。この碑を見てそれを感じ取ってもらいたい。日本の政治家は、自分に不利なことはすべて忘れ、未来志向だけを口にする。米国も日本も現在(原爆投下の問題と関連し)未来志向を掲げているが、過去を忘れたら、未来もない」

広島/キル・ユンヒョン特派員(お問い合わせ japan@hani.co.kr)

韓国語原文入力: 2016-05-20 19:49

https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/744801.html 訳H.J

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