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古代日本の王宮の原型?韓国の扶余郡で百済王宮の朝堂と推定される遺跡が出土

登録:2023-12-04 20:26 修正:2023-12-05 08:21
建物跡から出た積心(柱を上げるために下に敷く石)=国立扶余文化財研究所提供//ハンギョレ新聞社

 1300余年前、百済の王と臣下たちが会って挨拶し、国家儀礼を行った宮殿の朝会堂(朝堂)と推定される遺跡が出てきた。これまで実体が知られていなかった7世紀の古代日本の難波宮の原型とみられるという推定も出ており、注目を集めている。

 国立扶余文化財研究所は、忠清南道扶余郡(プヨグン)の官北里(クァンブンニ)96番地の遺跡群から古代王宮の朝堂と推定される長さ60メートルを超える大きな建物跡を発見したと発表した。官北里遺跡は6~7世紀の百済王朝の泗ビ(サビ。現在の忠清南道扶余)都邑(首都)時代の最も有力な百済王宮跡とみなされてきた。1978年、商業施設建設のための基礎工事過程で百済時代の排水路と推定される遺構が確認されたことを契機に、1982年から15回の発掘調査を経て、いくつかの建物跡と道路跡などが調査されてきた。

上から見下ろした調査地域全景。1号建物跡と示された細長い建物跡が百済時代の王宮の朝堂と推定される遺跡だ=国立扶余文化財研究所提供//ハンギョレ新聞社

 研究所の資料によれば、昨年9月からの発掘調査過程で明らかになった宮殿の朝堂跡推定遺跡では、すべて泗ビ都邑時代のものと把握される1~3号建物跡といくつかの建築構造物跡(遺構)が確認される。特に1号と3号建物跡は、長軸方向が北極星の方角と一致することが明らかになり、特定の方向軸を持つ宮殿などの特殊施設であることを示している。

 注目されるのは最大規模の1号建物跡だ。地形や配置の様相・規模などから見て、王宮の朝堂である可能性が高いと研究所側は見ている。1号建物跡では柱の下の土台石である礎石を支える基礎施設の積心(柱を上げるために下に敷く石)と排水路跡などが現れた。特に、泗ビ都邑時代の遺跡の建物跡で発見された積心はほとんどが土だけを積み上げたものだったが、1号建物跡は床部から石材を砂混じりの粘土と共に積み上げてあることが把握された。積心の配置形態を考慮すると、単独でできた様々な建物が並んだ構造だというのが研究所側の分析だ。

建物跡から出土した巴紋軒丸瓦=国立扶余文化財研究所提供//ハンギョレ新聞社

 建物跡からは、公州(コンジュ)の公山城や全羅北道益山(イクサン)の王宮里遺跡などから出た巴紋様の瓦と多様な紋様の瓦が一緒に出てきた。建物跡の周囲はもともと湿地地形だったが、土塁を築き内側に各方向から土を埋めて念入りに補強したことが明らかになった。研究所側は「王宮などの施設を建てるために基盤作業を行い、正殿など宮殿中心の建物の周辺を囲む長廊式建物を建てたと推定される。このような1号建物跡は確認された長さだけで約60メートルで、調査すれば北側にさらに領域が拡大するとみられる」と分析した。

扶余郡の官北里遺跡および扶蘇山城の全景=国立扶余文化財研究所提供//ハンギョレ新聞社

 一部の専門家は、長廊式1号建物跡が6~7世紀の東アジア王宮で儀礼を行った空間である朝堂院の跡だという見解を示した。1・3号建物跡の北側には、正殿の性格を持つ中心の建物跡がある可能性が提起されているが、王宮とみるには領域が狭いとの反論もある。忠南大学のパク・スンバル教授(考古学)は、「大型建物跡の空間配置構造が日本の大阪にある7世紀の難波宮の朝堂院跡と似ており、宮殿の造営過程から百済・日本の影響関係が初めて具体的な実体を現すものと期待される」と話した。研究所は4日午後1時に調査現場を公開する予定だ。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1118920.html韓国語原文入力:2023-12-04 09:05
訳J.S

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