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[レビュー]中国料理が全世界に広まった実に複雑な事情

登録:2023-11-06 05:00 修正:2023-11-06 08:15
日本の中国都市・食文化研究者 
ナショナリズムから見た中国料理の世界史 
チャジャン麺、ラーメン、パッタイ、チャプスイ… 
中国の各地方の民間料理が全世界に 
 
『中国料理の世界史』  
岩間一弘著、チェ・ヨンヒ、チョン・イチャン訳、補論:イ・ジョンヒ|タビ刊
1972年2月、中国の北京飯店の厨房で食事を試食する米国のニクソン大統領のパトリシア夫人=タビ提供//ハンギョレ新聞社

 中国料理は、文字通り全世界のどこででも出会える。単なる「出会う」の次元を越え、完全にその国の「国民食」になったケースが多い。韓国で国民食に選ばれる「チャジャン麺」を考えてみれば理解しやすい。日本の「ラーメン」、シンガポールの「海南チキンライス(海南鶏飯)」、タイの焼きそば「パッタイ」、フィリピンの麺料理「パンシット」、全世界の米軍の食事にまで採用された米国の「チャプスイ」、さらには中国から地理的に遠く離れた南米ペルーの牛肉炒め「ロモ・サルタード」に至るまで、その起源を確かめてみると、すべて中国料理に行きつく。

 「なぜ中国料理は世界中どこでも出会えるのか」という問いは、料理と社会の関係を掘り下げる食文化研究において中心的なテーマに選ばれており、問いが問いであるため、その答えは個々の国家に留まらない「世界的」なアプローチを通じて探らざるをえない。

 日本の慶応義塾大学の岩間一弘教授が著した『中国料理の世界史』は、確固として提示した研究の方向を堅持しつつ、最新情報と研究成果をあまねく反映し、このテーマを深く詳細に扱う。中国でいわゆる「中国料理」が形成された過程から始まり、広東、福建、山東など中国各地の料理が、アジア、欧州、米州など世界各地にどのように広まったのか、また、なぜその国の「国民食」の座を占めることになったのかなどを扱っている。

『中国料理の世界史:なぜ中国料理は世界中どこでも出会えるのか』(韓国語題) 岩間一弘著、チェ・ヨンヒ、チョン・イチャン訳、補論:イ・ジョンヒ|タビ刊|4万8000ウォン//ハンギョレ新聞社

 「ナショナリズム」、すなわち近代国民国家の形成をテーマとして、料理と社会の間の複雑多岐にわたる関係を捉える力が卓越している。中国料理の普及は、中華帝国が領域を拡大したり周辺民族を「漢化」した時期ではなく、むしろ帝国が衰退し危機を迎えた19~20世紀に最も活発になされた。そのため、「国家権力のようなものとは関係なく、現地の民衆からおいしく実質的な料理という評価を得た」ことが、中国料理の普及の秘訣だとみなす評価もあった。しかし著者は、「中国よりむしろ中国料理を受容する現地国の国家権力」に注目し、中国料理もやはり「帝国主義と植民地主義の拡張とともに世界に広まったもの」だと解説する。「中国料理は国家によって体系化された国民料理ではなく、各地方で発達した民間の料理として(一人ひとりの華人によって)世界各国に広まった」が、各国のナショナリズムと呼応して影響力を獲得し、国民食の座を占めるようになったということだ。

シンガポールやマレーシアなどのマレー半島地域の屋台で多く食べられる中国料理「海南チキンライス(海南鶏飯)」。元々の海南島にはこうした料理は存在しない=タビ提供//ハンギョレ新聞社
香辛料が入ったエビペーストのソースやピーナッツを使って作る果物・野菜サラダの「ロジャック」のサンプル。「ロジャク」という言葉はマレー語で混合を意味する=タビ提供//ハンギョレ新聞社

 中国料理は、高温の油で炒めたり揚げたり、調味料を用いて外部から味を注入するため、現地の食材に対応しやすい。しかも、中国系の移民者の数があまりにも多くその歴史も深いため、中国料理は広く普及し得た。傾向として、広東人・海南人・客家は東南アジア全域に、福建人はマレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピンに、潮州人はタイ、ラオス、カンボジアに、雲南人はタイ、ミャンマーなどに移住し、現地社会と時には反目し時には協力するなど激しい相互作用を繰り広げた。食文化はその複合的な結果だった。例えば、ココナッツミルクやヤシ油などのマレー半島の食材・文化と中国式調理法の結合は、米麺「ラクサ」に代表されるマレー人と華人の混血文化といえる「ニョニャ料理」の伝統を作った。

 こうした食文化の発達の重要な背景になったのは、新しい国民国家の内部の動学、そしてナショナリズムだった。シンガポールは、1965年にマレーシア連邦から脱退するやいなや「フードカーニバル」のイベントを開き、「我が国の華(中華)、巫(マレー)、印(インド)など各民族の有名な料理を紹介」した。「民族的」アイデンティティより「国民的」アイデンティティを強調する「多民族・多文化」を前面に掲げたのだ。タイを代表する国民食であるパッタイは、1930~50年代に中国の焼き米麺料理の「チャークイティオ」を、豆腐、干しエビ、ニンニク、卵、生野菜とともに炒め、「中国料理の痕跡を消してタイ料理に変貌」させようとした料理だ。最初から政府が主導したパッタイの国民食化は、タイナショナリズムの台頭、そして当時の華人に対する強力な同化政策と直接的な関連があった。中国の麺とフランスの薄く切った肉の影響を受けたベトナムの米麺「フォー」は、パッタイと違って民間レベルで誕生したが、これもまたベトナム固有の「国民的」アイデンティティを求める基盤になった。

 韓国は山東料理の影響を強く受けたが、朴正煕(パク・チョンヒ)政権下の70年代に華人に対して財産権や教育権を剥奪するなど苛酷な政策を用いたことで、「中国料理の韓国化が進行」したという。それまで華人が独占していた中国料理店を韓国人が経営することになり、「チャンポンが赤くなって辛くなる一方で、チャジャン麺はよりいっそう黒く甘くなり、チャーハンに黒いチャジャンのソースをかけたり、真っ赤なチャンポンスープを添えたりすることになった」。 1950年代に米国が余剰農産物を援助国に無償で提供する政策を展開したことが、「日本でラーメンが、韓国でチャジャン麺が、台湾で牛肉麺が国民食と呼ばれるほど普及するきっかけになった」という解説も新しい。

タイ・バンコクの中国料理専門店「ティップサマイ」の焼きそば「パッタイ」。パッタイは近代ナショナリズムの強化の下でタイを代表する国民食になった=タビ提供//ハンギョレ新聞社
仁川にあった中華料理店「共和春」(現:チャジャンミョン博物館)のチャジャン麺。山東の華人を起源とするチャジャン麺は韓国の代表的な国民食に位置付けられている=タビ提供//ハンギョレ新聞社
エドワード・ホッパーの絵画「チャプスイ」(1929年)。米国式中国料理を代表するチャプスイは1900~1960年代の米国大衆文化全般に溶け込んだ=タビ提供//ハンギョレ新聞社
オーストラリアの中国料理「カレーラクサ」。マレーシアとオーストラリアを結ぶ料理といえる=タビ提供//ハンギョレ新聞社

 中国料理はアジアだけでなく他の大陸でも国民食になったが、ここにも複雑な事情がいくつもある。「一般的に言って、この時期(19~20世紀)に世界の資本主義システムが欧州から新大陸に、そしてアジアを含む周辺部に拡大し、世界各地で労働力市場が出現し、安い労働力を引き寄せ」、華人だけでなく他の国々のさまざまな人口移動が新しい食文化につながった。中国移民を禁止した米国の「中国人排斥法」(1882年制定)を撤廃(1943年)させる過程は、移民の料理「チャプスイ」が米国を代表する料理に位置づけた。清朝末期の大物政治家、李鴻章の米国訪問(1896年)、1930~40年代の日中戦争・太平洋戦争などは、米国において「東洋人」の多様性に対する注意を喚起するきっかけになった。チャプスイは米軍兵士用の料理になり、米軍に従って他国にも広まった。冷戦期の1972年のニクソン大統領の中国訪問は、移民法改正後に「北京ダック」などの中国料理が米国で流行することになるもう一つの大きな出来事として挙げられる。

 このように、食文化とナショナリズムの関係を見つめることは、「国民料理は他民族の文化に対する同化と排除の論理ではなく、寛容と調和の精神によって成長するとき、はじめてその可能性を大きく広げることができる」と気づかせることにつながる。個々の国家だけが専有する食文化というものは、おそらく存在しえないだろう。そして、「自分が属する集団、地域、国などの生活空間を越える想像力を育てるためには、世界史に挑戦しなければならない」

チェ・ウォンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/1111954.html韓国語原文入力:2023-10-13 18:22
訳M.S

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