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[レビュー]オッペンハイマーが敬服した「20世紀で最も賢い人」

登録:2023-09-23 08:41 修正:2023-09-23 10:38
ハンガリー出身の科学者ノイマンの評伝 
数学、経済学、コンピュータ工学、生物学 
様々な分野を渡り歩き、天才的な才能を発揮 
 
『未来から来た男 フォン・ノイマン ー20世紀で最も革命的な人間、そして彼が作った21世紀ー』 
アナニヨ・バッタチャリヤ著、パク・ビョンチョル訳|ウンジン知識ハウス刊
ハンガリー出身の科学者ジョン・フォン・ノイマン。ポーランド出身の数学者で彼の親友のスタニスワフ・ウラムが米国哲学協会に寄稿した論文に掲載された写真=ワシントン知識ハウス提供//ハンギョレ新聞社
『未来から来た男 フォン・ノイマン』アナニヨ・バッタチャリヤ著、パク・ビョンチョル訳|ウンジン知識ハウス刊|2万9000ウォン//ハンギョレ新聞社

 このような人をどのように説明すればよいのだろうか。6歳で8桁の数字(1000万単位)の掛け算をこなし、10代の頃から数学の様々な難題を解き、量子力学で重要な定理を発見した。第2次大戦時、米国の核兵器開発計画であるマンハッタン計画に参加し、戦後は水素爆弾の開発にも積極的に関与した。米軍の弾道研究所に所属して砲弾の運動方程式を解く過程で、コンピュータの誕生に決定的な貢献をした。そうかと思えば、ゲーム理論を開発して数理経済学の時代を開き、冷戦時代に核の先制攻撃の是非を決めるための方法論を提供した。自分で考えて自分を複製する機械を設計し、機械が人間の能力を追い抜く時点を示す「技術的特異点」という用語を初めて使った。機械と人間の頭脳の関連性を探求し、コンピュータ科学と神経科学という2つの分野を統合させ、人工生命の研究の土台を作った。

 一人が成し遂げたとはとても信じられないこうしたすべての業績を残したのは、ハンガリー出身の科学者ジョン・フォン・ノイマン(1903~1957)。英国の科学ジャーナリストのアナニヨ・バッタチャリヤが、彼の生涯と業績を収めた評伝のタイトルを『未来から来た男』(The Man from the Future)にしたことは、きわめて適切に思える。主人公の名前「ノイマン」はドイツ語で「新しい人間」を意味し、ノイマンは20世紀を生きたが、21世紀を準備して設計した先駆者だったからだ。韓国科学技術院(KAIST)のチョン・ジェスン教授が本の推薦文で、彼を指して「21世紀の現代文明を作りだすことに決定的な寄与をした(…)唯一の人」としたのは誇張ではない。

 著書は、ノイマンの短い生涯を追い、彼が残した多方面の痕跡を探るが、その過程で20世紀初中盤の多くの科学者と工学者が登場し、科学の重要な発見と発展の過程があわせて叙述される。エルゴード定理、代数理論、量子力学、モンテカルロ法のような数学や科学理論などは、予備知識がない読者には難しいかもしれないが、詳しい理論的な理解がなくても、学者の摸索と奮闘そして達成の話は、十分にいきいきと興味深く迫ってくる。

 ノイマンは、ハンガリーのブダペストでユダヤ人事業家の家庭の長男に生まれた。両親は3人の子どもを学校に通わせる代わりに家庭教師を雇い、家で教科課程と外国語を教えた。幼いノイマンはフランス語とイタリア語、英語をそれぞれ別の家庭教師から習い、古代ギリシャ語とラテン語まで勉強した。法律家から投資家に転身した父親は、ある不動産財閥から図書館をまるごと買い入れ、自宅は床から天井まで本でぎっしり埋まっていた。

 ノイマンは、後に入学したギムナジウム(高等学校)を卒業した後、ベルリン大学とスイス連邦工科大学で化学を勉強すると同時に、ブダペスト大学で数学科の博士課程を履修した。19歳で書いた博士学位論文は、集合論の基礎をしっかりと固めただけでなく、「自身の元素でない集合」というラッセルの悩ましいパラドックスを見事に解決した。学位を得た後には、ゲッティンゲン大学で学びながら、ハイゼンベルクの行列力学とシュレーディンガーの波動力学をめぐる物理学界最大の難題を解決する快挙を成し遂げもした。

骨がんで闘病中だった晩年のノイマン(右)は車椅子に乗ってホワイトハウスを訪問し、アイゼンハワー大統領が授与する「自由勲章」を受けた=ウンジン知識ハウス提供//ハンギョレ新聞社

 「1920年代は科学の公用語は英語ではなくドイツ語だった」。米国は図体だけは大きかったが、科学教育の水準は劣っていた。米国のプリンストン大学数学科の教授のオズワルド・ヴェブレンは、欧州の優れた数学者を高い給与で迎え入れることにし、ノイマンと彼のギムナジウムの1年先輩であるユージン・ウィグナーを米国に呼び入れた。1930年のことだった。ノイマンはナチスのユダヤ人迫害の直接の犠牲者ではなかったが、ユダヤ人と共産主義者を職場から追放したナチスの「職業官吏再建法」によってドイツの科学は大きく後退し、主導権を米国に渡してしまった。「この時追放された学者のうち20人は、すでにノーベル賞を受賞しているか、後に受賞する人で、そのうち16人はユダヤ人だった」。第2次大戦中の核兵器開発競争で米国がドイツを追い抜いた結果は、これと無関係ではないだろう。

 プリンストン高等研究所にアインシュタインやクルト・ゲーデルらとともに勤めたノイマンは、第2次大戦が勃発すると、米軍の弾道研究所の科学諮問委員の職を引き受け、「爆弾の流体力学的原理およびこれに関連する非線形方程式」を研究し、その後は国防研究委員会の委員として「戦争に関連するすべての科学研究計画を調整」する仕事をする。ロバート・オッペンハイマーの要請で原子爆弾の開発計画に参加した彼は、冷戦時代に好戦的な反共主義者な一面を示したが、ソ連のスパイとされたオッペンハイマーを弁護することにも情熱をつくした。

 ノイマンは第2次大戦の前後には、核爆弾をはじめとする戦争関連の業務に没頭しながらも、他の分野の研究も手を抜かなかった。1928年、ミニマックス定理の証明を収めて出版した『室内ゲームの理論』の後は手から離れていたゲーム理論を10年ほど後に復活させ、「拡張経済モデル」という経済理論を開発したし、オスカー・モルゲンシュテルンとの共著『ゲームの理論と経済行動』を通じて「社会科学のあらゆる分野に適用できる強力な解析ツール」を提供した。現在でもコンピュータの設計に使われる「ノイマン型アーキテクチャ」を開発した彼は、人間の頭脳とコンピュータの関連性を掘り下げ、自己複製機械のオートマトン理論で人工知能(AI)の概念を誕生させ、分子生物学の理論的基礎を築いた。

 このように様々な分野で驚くべき成果を成し遂げたが、「ノイマンは誰かが自分の業績に気づく前に果敢に前進した」。彼が落としたヒントをもとに後続研究を続け、ノーベル賞を受賞した学者は少なくなかった。学問分科を渡り歩く関心に加え、人よりはるか先に進むスピードのため、ノイマンは少なからぬ無理解と偏見に苦しめられた。50代でがんの攻撃を受けた彼は、最期を迎えるとき、介護していた娘に「7+4」のような簡単な算数の問題を出してほしいと頼んだが、1問も答えることができなかった。「天才の中の天才」「20世紀で最も賢い人」の知性はそうして消えていった。

チェ・ジェボン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/1109620.html韓国語原文入力:2023-09-22 10:22
訳M.S

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