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‘日帝残滓’-‘保存価値’敵産家屋をどうする

原文入力:2010-02-28午後08:56:54(3095字)
アパート・乱開発で解体… "純粋な日本式はない" 批判
所有主が文化財指定に反対… "税減免など恩恵与えるべき"

ソンチェ・ギョンファ記者,パク・ヨンニュル記者,パク・イムグン記者

←ソウル,龍山区,龍門洞6番地一帯にある敵産家屋で屋根の形が典型的な日本式だ。現在住宅として使われている。ファン・ビョンウ文化連帯文化遺産委員長提供

1894年現在の孝昌公園一帯に日本軍が駐留し、龍山地域に日本人たちが定着し始めた。これらは主に軍用物資を調達したり日本飲食店を開いて生活していた。龍山の日本人人口は1895年の100人余りから1909年には1万人に急速に増えた。

龍山の中でも日本人たちが特に多く暮らしていた地域は現在の元暁路1~4街,漢江路1~3街,文培洞,新契洞などだった。これらの地域は1925年には日本人居住比率が90%以上だった。

1945年日本が敗戦し韓国を離れるや、龍山など日本軍駐屯地域に建てられた日本人建物は全て国家に帰属した。これを韓国人たちは敵産(敵の財産)と呼んだ。チェ・キュチョル ソウル市文化財課文化財管理チーム長は 「解放後、政府が不足した財政を充当するため敵産家屋を安い価格で払い下げ人気があった」と話した。日本人たちが暮らした敵産家屋はこの時から韓国人たちの暮らしの空間に変わった。

■龍山の随所に残っている敵産家屋
"切妻屋根と瓦の形を見ると典型的な日本式家屋ですね。" 去る19日ソウル,龍山区,青坡3洞の善隣中学校近所の路地でファン・ビョンウ文化連帯文化遺産委員長が話した。ファン委員長が指し示した2階建て住宅は軒が1階につくほど長く、屋根の角度も非常に鋭利でエキゾチックな雰囲気を漂わせていた。ファン委員長は 「日本は雨が降り雪がたくさん降るので、これを素早く流すために屋根を険しくさせる」と説明した。

元暁路1街に入り込むと、とがった屋根3ヶが並んでいる3階建て高さの倉庫が現れた。現在ロッテ機工とロッテハムが事務室として使っているこの建物は真四角で寂しい他の現代式建物とは異なり、どことなく奥ゆかしい雰囲気をもっていた。建物の前で会ったイ・ソンウ ロッテ建設建物管理総括技士は 「日帝時に建てられた建物だが、6・25時は米軍病院としても使われたと聞いた」と建物の歴史を伝えた。

この建物に対して文化財委員のキム・チョンドン牧園大教授(建築学)は「1930年代後半、日本人たちが倉庫として使うために作った建物と推定される」として「外見が立派に残っていて、今姿そのままうまく活用されたら良いだろう」と話した。この日午前だけで龍山区,青坡洞と元暁路,龍門洞路地で住宅,食堂,事務室などとして活用されている数十軒の敵産家屋を確認することができた。

←ソウル,龍山区,元暁路1街,龍山警察署近隣にある日帝式建物でロッテ機工・ロッテハムなどが事務室として使っている。1930年代後半に建てられた倉庫用建物と推定される。 シン・ソヨン記者viator@hani.co.kr

■敵産家屋は日帝の残滓か?
こういう‘敵産家屋’はこの間、日帝の残滓と見なされ注目されなかったし、無分別な開発により速い速度で消えている。龍山は最近地価が大きく上がり、敵産家屋らがいつつぶれるかも知れない状態になった。キム・チョンドン教授は 「1960年代から洋館が導入され、敵産家屋が消え始め、90年代以後のアパート旋風は敵産家屋を含む一戸建て住宅を総ざらいしている」と話した。

専門家たちは敵産家屋を日本式住宅とばかりは見られないと話した。例えば屋根形式と窓などは日本式だが、オンドルと厚い壁を使ったのは韓国式であり、壁暖炉・立式構造は洋式というものだ。さらにこの敵産家屋には日本人たちが住んだ期間より解放後に韓国人たちが暮らした期間がさらに長い。キム・チョンドン教授は「日本人たちが残した建物なので漠然とした反感を持ちやすいが、実際には近代時期に韓国に導入され適応した住宅の一形態とみるべきだ」と話した。
しかし敵産家屋を保存・活用することは容易でない。文化財庁が2005年価値が高いと判断した龍山区敵産家屋2棟を登録文化財に上げようとしたが、所有者の反対で失敗した。キム・スジョン ソウル市文化財課調査研究チーム長は「よく建てられた敵産家屋を登録文化財に上げれば、政府の支援も受け適切に,活用することもできる」としつつも「現在は所有者が開発利益を優先視するので保存・活用する方案はほとんど検討されていない」と話した。ファン・ビョンウ委員長は「韓国式家屋と近代建物,敵産家屋など過去の建築物を保存する場合、税金減免や補修支援など恩恵を与える方案を検討しなければならない」と話した。

ソンチェ・ギョンファ記者 khsong@hani.co.kr

※敵産家屋
‘敵産’は敵の財産という意で、‘敵産家屋’は日帝強制占領期間に日本人たちが韓国に建てて暮らした家を称する。仁川・木浦・浦項など港町にも敵産家屋と建物が多かった。浦項市は九龍浦の敵産家屋を保存し観光地にした。

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群山・浦項では観光資源として活用

敵産家屋は群山,浦項,木浦,釜山,仁川など植民地収奪の根拠地であった港町に多く残っている。一部地方政府は日帝時敵産家屋と近代建築物を歴史教育と観光資源として活用している。

全北,群山市は今年、日帝強制占領100年を迎え、月明洞・永和洞を‘近代歴史景観’に指定し、こちらの敵産家屋を観光資源として開発することにした。群山内港は日帝強制支配期に湖南平野で生産された米を日本へ持っていくための基地として利用された。月明洞・永和洞にはこの時に建てられた敵産家屋100余軒がまだ残っているが、群山市はこの一帯に近代歴史探訪路(3km)を作る計画だ。また登録文化財の朝鮮銀行群山支店と蔵米洞の旧長崎18銀行群山支店,開井面の旧島谷農場貴重品倉庫などは各種公演会場や美術館など‘芸術創作ベルト’に造成される。

浦項,九龍浦にも敵産家屋40余軒が残っている。九龍浦は1910年代までは閑静な漁港だったが、その後、現代式防波堤ができ慶北最大の漁業基地になった。大型漁船を率いた日本人船主・船員らが駆せ参じ、これらを相手にした商店と遊郭(性売買地域)ができた。1933年には九龍浦に270余世帯1100人余りの日本人が暮らしていたと<迎日郡史>は記録している。現在、九龍浦町長安村には狭い路地の左右に日本式2階建て木造家屋が並んでいる。浦項市はこちらを保存・開発し、日本人と内国人観光客を誘致する事業を推進中だ。

釜山と木浦にも依然として敵産家屋が多く残っている。釜山の場合、映画<チング>を撮影した南浦洞乾物卸売市場の建物の大部分が敵産家屋で作られている。木浦も湖南平野の米を積み出した港らしく、中央洞と万戸洞などの地に敵産家屋が残っている。

ファン・ビョンウ文化連帯文化遺産委員長は「敵産家屋を歴史教育と観光資源として活用できる政策がもっと出てくるべき」と話した。

ソンチェ・ギョンファ,全州大邱/パク・イムグン,パク・ヨンニュル記者

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/area/407338.html 訳J.S