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北風より苛酷だった暮らし…‘シベリア抑留者’

登録:2009-08-14 23:41 修正:2023-11-15 08:51
新婚時期に日帝徴兵…ソ連軍捕虜 強制労働 
祖国では‘ソ連帰還者’レッテル…“人間でない暮らし” 
足で駆けたキム・ヒョスン大記者(論説委員)の‘生々しい報告書
冬には土地が凍り埋めることが出来ずカチカチに凍りついた遺体を薪のように積んでおき、春になれば穴を掘って埋めた。シベリア抑留者たちの実状を日本人イラストレーター井上カオルが描いた。ソヘムンチブ提供
<私は日本軍 人民軍 国軍だった>キム・ヒョスン著/ソヘムンチブ・1万2900ウォン

<私は日本軍 人民軍 国軍だった>の主人公‘私’とは誰か? おそらく現在の韓国人も大多数はほとんど聞いてみたこともないこの人の存在について、どこからどのように話を始めなれば良いだろうか。あとがきから読んでみるのが良いかも知れない。

“(彼らがこのまま亡くなれば)国全体としては弱小民族として被った現代史の悲劇として何の教訓も得られない格好になる。自国民が歴史のある時点で言葉では言い表しようのない被害にあったというのに、わが政府は加害者政府に何の抗議も異議提議もしない。”その後に再びこういう一節がある。

“それでも被害者たちの申告が受け入れられて一部資料が集められたのは盧武鉉政府の時に過去史(真相調査)関連委員会が作られ活動したおかげだ。しかし守旧勢力らはこういう部分的な成果と意味にお構いなしに過去史委員会らをまるごと罵倒し早く解体しなければならないと叫ぶ。”いったいどういうことなのか。

イ・ジェソプ。1925年生まれ。京畿道,始興出身。1945年に結婚し1年にもならない新婚の彼に、その年の8月1日までに平壌訓練所に入所しろとの召集令状(アカガミ)が来た。日帝は1943年8月朝鮮で徴兵制を強行し1944年4月に初めての身体検査が実施された。そのようにして徴兵された朝鮮青年は概略17万~21万人。徴兵1期生たちは1924年に生まれた二十才の甲子生まれたち。“甲子生まれは無条件に戦場に引きずられて行く”という言葉が交わされた。

イ・ジェソプは徴兵2期生だった。ソ連軍が日本の関東軍に向けて総攻勢を始めた1945年8月9日の1日前、満州ハイラル(海拉爾)の村上部隊に配属された。銃一発撃つこともできないまますぐに退却して捕まった彼は結局シベリア,バイカル湖の西側クラスノヤルスクへ移送された。地獄だった。60万余のシベリア日本軍捕虜らの中で1割の6万人余りが寒さと飢えと強制労働の中で死んでいった。1947年朝鮮人には帰国令が下ったが朝鮮には彼らを受け入れる政府がないという理由で取り消しされた。ハバロプスクを経てナホトカにソ連貨物船に乗って興南港に戻ったのは入隊して3年がとうに過ぎた1948年12月末。‘解放’された祖国は彼らを歓迎するどころか、正体不明の不穏分子扱いをした。再び辛く数奇な人生が彼らを待っていた。

だから‘私’はこのように日帝末期に満州とクリル列島,サハリンの日本軍部隊に強制徴集されソ連軍捕虜として捕まり、3~4年間(日本人の中には10年を超した人も少なくない)抑留されたまま強制労働をさせられて帰ってきた複数の‘シベリア帰還抑留者’たちだ。1948年末に戻ってきた朝鮮人抑留者たちは約2200人。これらの内480~500人が南に下り、320人余りは故郷の土地である満州など中国に散った。残り1400人余りは北側に残った。ソ連にそのまま残ったり日本に行った人もいた。

南へ下った人々は38度線を銃撃まで受けながら夜中に逃げるように越え、尋問と受け入れを経た後に監視された。分断と戦争をたどりながら彼らの多数は再び逃亡者となったり、日本軍-国軍,日本軍-米軍KATUSA(駐韓米軍に属する韓国軍人)-国軍,日本軍-人民軍-国軍,日本軍-人民軍-米軍軍属,日本軍-パルチザン,日本軍-北派工作員などの人生航路を描いた。相当数が負傷したり死んだりした。帰還後、ソウル市経済局臨時職員に採用されたキム・グァンヒは戦争の時に故郷城南に避難しソウル修復後に公務員原隊復帰令により出勤したが、なぜ釜山に避難しなかったのかと追及されたあげく10年の懲役刑を宣告された。‘ソ連帰還者’というレッテルのために。息を殺して生きなければならなかった。80の老人になったイ・ジェソプは「人間の暮らしではなかった」と話した。

引っぱられて行った彼らの悲惨とは対照的に、自発的に満州の軍官学校,日本陸軍士官学校に行き日帝に忠誠を尽くした人々の人生は華麗だった。朴正熙,丁一權,白善燁,劉升烈など多数の日本軍将校出身らが日帝崩壊時にいちはやく抜け出し新生大韓民国の大統領,国務総理,長官,隊長に出世して栄達した。

西ドイツは戦争後、すぐにソ連と送還交渉を行い帰還抑留者らのための特別法まで制定し支援した。日本は埋めておくことに汲々として抑留者たちが組織を結成し対応するや、やむをえず‘慰労金’等で最小限の恩着せをした。二重三重の犠牲者である朝鮮抑留者たちに彼らの祖国はそれすらもしていない。シベリアにどれほどの人が引きずられて行ったのか、現地犠牲者がどれくらいになるのか、死因は何でありどこに埋められたのか、遺族たちに彼らの身上情報が通知されたのか、どれほどの人が生きて戻ってきたのか、戻ってきてどのように生きて暮らしていくのか、きちんとした基礎資料さえない。何人かの個人と機関の奮闘で断片的な記録は残ったが、大韓民国現代史から彼らはほとんどまるごと抜け落ちている。それも知らされた事実の中で相当部分は10年余り前に始めた日本側の作業のおかげだ。冷戦以後、ソ連との修交後に‘シベリア北風会’という親睦会を結成した韓国内生存抑留者は30人程度。北風会会員は20人余り。齢80の彼らの生存中に真相が明らかになり当事国の謝罪と補償がなされる見込みは殆どない。

本はこれらに対する韓国内で初めての総合報告書だと言えるかも知れない。<ハンギョレ>キム・ヒョスン論説委員はこのために各国資料を検索し、日本・中国まで巡って被害者と遺族たち,関連団体と政府機関関係者,学者,政治家などに面会した。適切に配分した歴史的事実と緯線,経線として編集された抑留者らの生々しい体験談が実感できるように迫る。隠蔽されてきた事実を通じて再構成された韓国および東アジア現代史。本格研究者らの奮発を促す刺激剤になるのではないだろうか。

ハン・スンドン選任記者sdhan@hani.co.kr

原文: http://www.hani.co.kr/arti/culture/book/371247.html 訳J.S