<ハンギョレ>創刊25周年(15日)を迎え7つの考えを一日に一つずつ載せます。 私たちの社会がより成熟した姿を備えられるよう‘考える国’を主題に国内外知性の真剣な省察を盛り込んだ文です。 哲学のある政治を皮切りに平和のある韓半島、労働のある富、人格ある教育、献身ある宗教、人間性ある科学、倫理ある快楽へと続きます。
‘政治’は平和(治)の実現(政)だ。 そして平和は昔からの念願だ。 修身斉家治国の究極的目標は平和な世の中(平天下)を作ることだ。 そして平和とは文字どおり和を均す(平)ということだ。 和の意味がコメ(禾)を食べる(口)私たちの生活そのものならば、政治は私たちの生活が抑圧されず差別を受けないようにするということだ。
政治が平和の実現だというその意味を考え直す理由は、今日の政治的現実がそうでないためだ。 政治は統治の意味で通用していて、政治とはその統治権力を掌握することだ。 このような政治現実は政治を越えたものにならざるを得ない。 道を誤って入った人であればあるほど、その歩みはより一層せきたてようとするのが常であり、ますます迷宮に陥る。 そのような場合、私たちができることは原点から再び始めることだ。 ソウルで道に迷った人が光化門(クァンファムン)の忠武公銅像から再び歩き始めるのと同じだ。
今日、私たちの社会の現実情緒は一言で言えば‘不安’だ。 青年、老年、就業者、非就業者を問わず不安でない人がいない。 個人の暮らしから国家経営、世界秩序に至るまでそうだ。 より一層不安なのはその果てが見えないという事実だ。 絶望とは展望がないことを称する。 それでも政治は希望と平和を語れず、人々の信頼を受けられずにいる。 人々の圧倒的情緒は政治それ自体に対する不信だ。 華麗な政治的言説は権力を掌握するための修辞と受けとめられるだけだ。 政界は私たちの社会で最も有能な人々が集まっていて、他のどの分野よりも透明だが、人々は政治に対する期待をあきらめているのが現実だ。 本当に反平和、反政治の現実に違いない。 政治の原則と哲学を考え直す所以はそこにある。
私たちは多くの苦境を経験して来たし今もその延長線上に立っている。 しかしそれがどこから来たものであり、そこからどんな教訓を読まなければならないかに対する省察がない。 苦境を体験しても悟ることができない困而不知の社会が重ね重ねどれほど多くの費用を払わなければならないかについては歴史が示している。 このような苦痛と不安の原因を明らかにして、それを克服する意志と希望を結集する求心がまさに政治であることはもちろんだ。 しかし今日の政治現実はこれらすべてのことの根本である信頼を得ることからして失敗している。 このような現実で信頼と希望の政治を作り出すことはより一層遠い道に違いない。
古今東西、数多くの言語の中で私が最も大切にしている希望の言語は‘碩果不食’だ。 周易の爻辞にある言葉だ。 少なくとも私には絶望を希望に変える宝石のような金言だ。 碩果不食の意は‘碩果は食べない’ということだ。 碩果は枝の端に残っている最後の‘種果実’だ。 初冬の北風の中の種果実は逆境と苦難の象徴だ。 苦難と逆境に対する希望の言語がすなわち碩果不食だ。 種果実を食べるが食べずに(不食)大地に植えることだ。 大地に植えて新芽を育てて再び木に、森に作り出すことだ。 これは絶望の歳月を生きながら汲み上げた古人の昔からの知恵であり意志だ。 そういう意味で碩果不食は単に一粒の種に関する話ではなく、私たちが守り育てなければならない希望に関する哲学だ。 政治の原則を考えさせる教訓でもある。 碩果不食から私たちが読まなければならない教訓は大きく3つだ。 第一に葉落、第二に体露、第三に糞本だ。
‘碩果不食’私たちが守り育てなければならない希望の言語
*碩果不食:種果実は食べずに大地に植える
政治とは人々の美しさと
社会の力量を
完成することでなければならない
しかし私たちの現実は
人を育てることよりも
多くの人を余剰人間として
浪費していて
さらには人を他の何かの
手段とさえしている
‘葉落’は葉を落とすことだ。 バブルと幻想を取りはらうことだ。 バブルと幻想は、私たちの喉を限りなく渇かせる。 真実を見ないようにして、自らを欲望の奴隷にする。 今日の政治が幻想とバブルを清算するよりは、むしろそれを育てていないか反省しなければならないだろう。 より多くの消費とより多くの所有は果てがないだけでなく、良い人、平和な社会を作る道にもなれない。 先ず葉を落とさなければならないという葉落の重要さはそのためだ。
‘体露’とは葉を落として木の骨組みを直視することだ。 骨組みというのはその社会を支える柱だ。 例えば政治的自主、経済的自立、文化的自負だ。 政治的自主は私たちの生活に対する主体的決定権の問題だ。 経済的自立は危機を繰り返している世界経済秩序の中でその波高に耐えられる経済的土台を作ってあるかを直視することだ。 経済的自立基盤が頑丈な時にはじめて政治的自主が可能になるのはもちろんだ。 そして文化的自負は私たちの文化が私たちの人生そのものに対する省察と自負心を抱かせているかを直視することだ。 自負心こそが逆境に耐える力であるからだ。
葉落と体露の教訓は要するにバブルで遮断されている政治、経済、社会文化の構造を直視することだ。 一言で言えば、人生の根本に向き合うことだ。 捕獲され飼い慣らされた私たち自身の姿を悟ることだ。 私たちのゆがんだ自画像と不快な真実に向き合うことだ。
最後に‘糞本’は木の根元に肥料(糞)を施すことだ。 葉落と体露の困難も相当だが、それよりさらに難しいのが糞本だ。 何が本であり、何が根かに関する反省が先行しなければならないためだ。 私たちの暮らしと歴史を支える根元は果たして何か。 驚くべきことに根元がすなわち‘人’だという事実だ。 全く忘却していた言語、‘人’が全ての根元だ。
論語に‘政治とは正すこと’(政者正也)という句がある。 何を正すのが政治なのか。 根(本)を正すことだ。 根元が折りたたまれずに正しく広がる時、木が良く育ち美しく花が咲くように、人が抑圧されない時に威厳ある木のように社会はその力量が最大化され人々は美しく花咲く。 政治とは人々の美しさと社会の力量を完成することでなければならない。 しかし、私たちの現実は人を育てるよりは多くの人を余剰人間として浪費し、さらには人を他の何かの手段とさえしている。 今や人のみならず何でも育てること自体が不快で不必要なことになっている。 全てのものは購入する。 必要な時だけ、そしてしばらくの間だけ購入する。 人も例外でないことはもちろんだ。
葉落、体露、糞本が難しいのは、その一つ一つが難しい課題というだけでなく、それらが互いに絡み合っているためだ。 しかもその絡まっている接点がまさに私たちの分断の現実という事実のためだ。 そして私たちの分断現実は、さらに東北アジアと世界政治秩序という重複的連結の輪に繋がっているということももちろんだ。 分断は南と北を問わず、政治的自主性の最も大きな障害だ。 そして60年間、南と北が賄っている途方もない分断費用は、経済的自立の最大障害物だ。 非難と敵対の言語は、単に南と北の間だけでなく、私たちの社会のあらゆる分野で憎しみと葛藤として構造化され、ただ一握りの自負心も許諾しない。 私たちが忘れているだけで、分断こそが私たちが当面している苦痛と不安の最大震源地だ。 分断の克服こそが政治の核心課題にならざるを得ない。 しかも政治とは平和の実現だという意味ではないか。 本当に道は遠く役割は重い。
遠い道を歩いていく人が忘れてはならない いくつかの支度がある。 第一に‘道’の心を持つことだ。 道は道路とは違う。 道路は目標に到達するための手段に過ぎない。 速度と効率がその本質だ。 それに対して、道はそれ自体がすなわち人生だ。 のろくても人生それ自体を美しく作り出そうと思う長い呼吸とゆったりとした歩き方が道の心だ。 目標の正しさを善と言い、その目標に到達する過程の正しさを美という。 目標と過程が共に正しい時を称して尽善尽美と言うわけだ。 私たちが営むすべての人生が、目標と過程が共に正しいものであるべきことはもちろんだ。
次に必要なのはパートナーだ。 苦労の道も共にできる旅仲間がいなければならない。 まさにこの点で私たちは非常に不幸だ。 信頼集団がないためだ。 単に政治領域だけでなく、信頼集団がないのは経済・文化・教育・宗教・言論・司法など社会のあらゆる分野も同じだ。 信頼できるパートナーがいなければ道はより一層遠く絶望的にならざるをえない。
そして遠い道は‘多数が共に’行かなければならない。 色々な人が共にするためには、お互いの違いを尊重して多様性を承認する共存の根拠地を作らなければならない。 すべての人のすべての立場と考えは尊重されなければならない。 私は20年間 獄に閉じ込められていたが、逆説的にも多くの人に会うことができた。 その多くの出会いの結論は、その人の考えは彼が生きてきた人生の結論だという事実だ。 そして私たちの人生の中には私たちが一緒に通過してきた現代史の哀歓がそっくり共有されているという事実だ。 そうした点で私たちはいくらでも疎通でき、また疎通しなければならない。 平和共存と疎通が重要なのは、それが政治の最優先課題であるだけでなく同時に統一に進む唯一の方法であるためだ。 私は統一を‘統一’と書かずに‘通一’と書いたりもする。 平和と疎通はそれだけでも統一課題の大部分を表わせる枠組みであるからだ。
そして最後に忘れてならないのは変化だ。 真の和は化でなければならないためだ。 "詰まれば変化しなければならず、変化すれば疎通することになり、疎通すればその生命が長引く" (窮則変変則通通則久)変化の意志のないすべての対話は疎通ではなく、また変化につながらない疎通とは真の疎通ではない。 相手方を他者化して自分を貫徹しようとする同一性論理であり本質的に‘掃討’である。
このように私たちが行かなければならない道は真に遠くて険しい。 しかも共にするパートナーも見つからない。 しかしパートナーは自分自身が先に良いパートナーになる時に初めて現れるのだ。 それがすなわち原則と根本を守ることだ。 酷寒に耐えた翌春の花はより一層美しい。 私たちが荷物を負っている苦痛が重く厳しいのは事実だが、まさにその途方もない重さゆえに遠からず‘平和と疎通と変化’という新しい政治典型の創造に花開けることを願う。 そして、そういう典型は分断克服という民族的課題だけでなく、ひいては覇権的世界秩序を止める21世紀の文明史的課題の踏み台になることを期待する。
政治とは何なのか。 平和と疎通と変化の道だ。 光化門から再び始めなければならない道だ。
シン・ヨンボク聖公会(ソンゴンフェ)大客員教授