「大統領は国民の信任を裏切り、裏の実力者に国政を任せ、国政を担う資格を失った。大統領は現在の国紀の乱れとこのさき明らかになるであろう真相に対して完全に責任を取らなければならず、大韓民国の国民がその資格を認めることができなくなったら大統領の座から降りるべきだろう」(2016年10月26日、梨花女子大学時局宣言)
8年前の11月、大学の新入生だった私は、毎週土曜日になるとソウル光化門(クァンファムン)の街頭へと向かった。国民に選ばれた大統領ではなく、大統領の親しいひとりの知人が国の仕事に手を出しているという報道が相次いでいた時だった。舞い散る雪を浴びながら農楽隊と共に街頭を行進し、ろうそくを手に歩いてゆき、大統領府の手前で警察に阻まれた記憶が生々しい。「主文。被請求人、大統領朴槿恵(パク・クネ)を罷免する」。憲法裁判所が大統領の弾劾を決めた瞬間、通学途中のバスの中で、携帯電話で生中継を見守りながら拳を握りしめつつも、自分にも理解できない悲しみに包まれた瞬間を覚えている。
「私たち国民は…大統領の公約に大きな期待をかけてはいない。国民的意思を全面的に黙殺した4・13暴挙は時代的大勢である民主化に逆行しようという陰謀であり、国家権力の主たる国民に対する挑戦状そのものである。国内外の嘲笑と非難は免れ得ず、取り返しのつかない途方もない事態を自ら招くものであることを警告しておく」(1987年6月10日、6・10国民大会宣言)
37年前の6月、ソウル明洞(ミョンドン)の街頭には私の父がいた。大統領直接選挙制改憲に対する熱望を一刀両断した大統領の「4・13護憲措置」は、大学生の血を煮えたぎらせた。催涙弾と「チラル弾」(催涙弾の一種の俗称)にやられて涙と鼻水を流し、多くの警察による連行を経て、ついに「6・29宣言(当時民主正義党代表の盧泰愚が発表した民主化宣言)」が発表された日のことを、父は忘れられないという。
「私は廃墟(はいきょ)の中で恥を忍んで生きている。私は梨泰院(イテウォン)惨事後の最初の講義で出席を取り、返事のない名前を前にしてどのような表情をしてよいのか分からなかった。私たちはもう廃墟の中に恥じ入ってとどまることなく、人間らしさを人生において回復するために努力する。大統領として国民の命と安全に無関心で、偽りで真実を覆い隠し、無知と無責任で好き勝手に突進する尹錫悦は直ちに退陣せよ!」(2024年11月13日、慶熙大学・慶熙サイバー大学教授・研究者時局宣言)
そして今年11月、記者生活2年目に突入したばかりの私は、後々どのような名前がつけられるか分からない大統領夫妻の各種疑惑の取材に飛び込んだ。取材の結果、大統領夫人が国政に介入していたことが一つ、また一つとあらわになっている。一人の民間人が大統領夫妻を背景として国会議員候補の公認と各種国家事業に介入していた、という疑惑も次第に膨らんでいる。
尋常ではない。8年前、そして37年前と似たような雰囲気だ。大学教授や学生たちの時局宣言が続々と発表され、再び市民たちが街頭に立ちはじめている。国民の問題提起にもびくともせずに頓珍漢な回答をし、果てはそれを「拒否」してしまう政権の姿勢までそっくりだ。
いつまで国民が街頭に立って政治を正さなければならないのか。「街頭の政治」で世の中を変えてきた歴史は確かに誇らしいが、それが繰り返され続けるのは苦々しい思いがする。2024年、この疑惑の終わりがどこにあるのかは分からないが、どうか再び街頭に立った国民によって引きずりおろされる「不運な大統領」が二度と現れないことを願いたい。
キム・チェウン|イシューチーム記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )