原文入力:2012/04/06 19:12(1585字)
←ファン・ヒョンサン高麗(コリョ)大名誉教授
最も卑しさと縁遠いと思われた大学
論文を盗作して学位を得て
その学位を取り消しできないならば…
1991年ソビエト連邦が解体されて、東欧圏の色々な国がその支配から解放されていた時、フランスのカトリック教団が運営するある右派雑誌に、神父でもあったある右派論客がこれと関連した文を発表した。 ハンガリー・ポーランドなどの地を旅行した思い出を語り、共産独裁体制が崩れること歓迎すべきことではあるが、敬けんで健康な人生の最終モデルが消えることは残念なことだと書いた。 東欧の労働者の家で容易に見られるバルザックとドストエフスキーとチェーホフの小説、ボードレールとツルゲーネフとマヤコフスキーの詩集を含む百冊余りの本がよく整理され収まっているその本棚に再び会うことができないことだと。 カレンダーや雑誌から切り取った聖人の肖像画、または、クールベやルノアールの絵を家主が自ら作った額縁に入れてかけてある食卓横の美しい壁を再び見られないことだと。 日常の対話で誰が何の話をしようが、精神を集中して聞く人はもう永遠に消えることだろうと。 彼らの座を占めるようになるのは、真実はともかくその時その時の状況によって演技をする人々だろうと書いた。
昔の東欧にしても今の東欧にしても、私は東欧に行ってみたことがないのでその論客の言うことがどの程度事実なのか、彼の予言がどの程度合っていたのか確認する方法はない。 しかし私はかえって今、私の国の人々が生きている生、まさに私の生を眺めて、彼が話したことの真意をある程度察する。 いかなる原則もなしに無駄な欲望と虚栄に寄り添ってきわどい演技をしながら生きるということが私たちの生であるためであり、その論客が、過去に東欧の人生と対比しようとしたものが、まさに私たちのこの卑しい生であるためだ。
最も卑しさと縁遠いと思われた大学について話そう。この頃、大学のほとんどすべての総長がCEO総長であるということは誰もが知っていることだ。 教育も学問も経済的裏付けがあってこそ可能であるから、学校経営が上手くいっているということは良いことだ。 しかし、経営が教育と学問を円滑にするためにではなく、逆に教育と学問が学校経営のための手段になる時から問題が始まる。 学校経営に役立たないと考えられる基礎学問分野の学科を廃止している大学がすでに多数あり、多くの時間と手間がかかる著述活動は止めて、学校評価で多くの点数を得られる論文を量産しろと教授を促す大学もすでに多くある。 ある大学は経営専門家を呼んで図書館の経営評価をしたところ、閲覧室の一部をカフェに変えろとの判断が出てきたといううわさもある。 それが私たちの生だ。
実情がこのようだから、ある政党の国会議員候補として公認された人が、他人の論文を盗作して学位を得たという疑惑に明快な返事をできないのも、専門家たちの判断と学界内外の叱責も物ともせず、その候補が世論調査で先頭を走っていることも強く嘆くことではないようだ。 しかし事実をいうならば、盗作が明白だという専門家たちの意見にもかかわらず、学位を与えた大学が学位を取り消さないならば、それは大学ではないことであり、その人がずっと教授として残っている大学もそこが大学だとは言いづらいだろう。その人が国会議員になる国を想像することはより一層苦痛だ。 私たちの生がいくら卑しくても、その苦痛までマヒさせることはできない。
ファン・ヒョンサン高麗大名誉教授
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/527123.html 訳M.B