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関東大震災での「朝鮮人虐殺」の責任者は誰なのか

登録:2023-09-04 06:16 修正:2023-09-04 08:39
2022年9月1日、日本の市民団体などで構成された「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典実行委員会」が東京墨田区の横網町公園で99年追悼式を行っている=東京/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 1923年9月の関東大震災直後に朝鮮人に対する広範囲な虐殺が発生した理由は何か。これまで、韓国と日本の歴史学者は大きく分けて2通りの説明を試みてきた。

 一つ目は、大震災という非常事態の状況のもとで、普段から朝鮮人に偏見と差別意識を持っていた日本人が、虐殺のような極端な対応に出たという説明だ。朝鮮が1910年に日本に強制併合された後、多くの朝鮮人がましな賃金と生活条件を求めて日本に渡っていった。そうしてやってきた賃金の安い朝鮮人の労働力は、日本人の下層労働者にとって大きな脅威にならざるをえなかった。日本は、朝鮮での3・1独立運動後、朝鮮人の日本渡航を抑制したが、第一次世界大戦後の好況が始まると、1922年12月に制限を撤廃する。1922年、日本居住の朝鮮人は5万9865人だったが、翌年の1923年には8万617人と1年間で2万人も増えた。

 大震災当時、東京近郊に住んでいた朝鮮人は、一部の留学生を除き、ほとんどが土木現場で働いていた低賃金労働者だった。こうした人たちは、日本在住期間が短く、ほとんどが日本語を話せなかった。これらの人たちと日本人の下層労働者の間で大小の対立が生じたであろうし、これが日本人の朝鮮人に対する差別と偏見を強化する方向に作用した可能性が高い。この説明に沿うならば、虐殺は「自然発生」したことになる。

水野錬太郎//ハンギョレ新聞社

 二つ目は、「朝鮮人を日本の敵」とみなした日本の指導部が、日本に大震災という深刻な治安上の危機が発生すると、明確な意図を持って虐殺を「誘導」したという説明だ。

 関東大震災直後、日本政府の治安部門を担当していた人物は、3・1運動とその後に満州で行われた朝鮮人の武装闘争を直接経験した人たちだった。朝鮮人の騒動を名目に「戒厳令」を発動した水野錬太郎内相(1868~1949)は、3・1運動直後の頃、朝鮮総督府のナンバーツーである政務総監に、そして警察トップである警視総監の赤池濃(1879~1945)は、その下の警務局長として在職した。特に水野は、第3代朝鮮総督の斎藤実とともに赴任するため、1919年9月2日に南大門(ナムデムン)駅に到着した直後、姜宇奎(カン・ウギュ)烈士(1855~1920)が投げた爆弾によって負傷した。震災当時、日本陸軍第1師団長だった石光真臣は、3・1運動を現場で体験した朝鮮総督府憲兵司令官であり、戒厳司令部参謀長だった阿部信行(後の最後の朝鮮総督)は、シベリア出兵軍の参謀長だった。

赤池濃//ハンギョレ新聞社

 水野内相は震災翌日の1923年9月2日、戒厳令を宣言する談話文で「人心恟々(きょうきょう)たる裡に、どこからともなくあらぬ朝鮮人騒ぎまで起こった。大木鉄相の如きも、朝鮮人攻め来るの報を盛んに多摩川辺で噂して騒いでいるという報告をもたらした」として、戒厳令を宣言する理由に「朝鮮人の乱動」を挙げた。関東大震災研究の第一人者だった在日朝鮮人で歴史家の姜徳相(カン・ドクサン)氏(1931~2021)は、「このような経歴の持ち主が『敵は朝鮮人』と考えて戒厳令を発動したので、何も知らない朝鮮人は座して死を待つしかなかった」と述べた。

 関東大震災時に虐殺された朝鮮人は6000人あまりということが定説だが、2万人を超えるという主張もある。虐殺直後、東京の朝鮮キリスト教青年会の幹事として罹災朝鮮同胞慰問班で被害調査に参加した崔承萬(チェ・スンマン)氏は、1985年に出版された回顧録で「1923年末、東京と横浜近辺には朝鮮人が3万人程度おり、虐殺後、関東地方の各地域で受け入れられていた人員は7580人だった」として、「(3万人から7580人を引いた)2万2420人が虐殺されたとみても過言ではないだろう」という結論を出す。どの数値を選ぼうが、恐ろしい大量虐殺があったことは厳然たる事実だ。

キル・ユンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/1106149.html韓国語原文入力:2023-08-29 13:09
訳M.S

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