責任を果さず乗客を死なせた船員に‘不作為殺人罪’
救助措置義務を尽くさなかった政府にも同じように適用すべし
それでも“朴槿恵(パク・クネ)の検察”は永く広く記憶される話題を一つ残しました。 先月27日、セウォル号事故結審公判で検察が船長イ・ジュンソク氏など一部船員に対して適用した「不作為殺人罪」がそれです。 検察が裁判所を説得するのに失敗することもありましたが、刑法の片隅に埋もれていた不作為殺人罪を引き出したことだけは評価されて当然です。 それはこの地で、権力と共に責任を負う者が当然にすべき仕事をしなかったために、死んだり死にゆく国民を今一度考え直す機会だったためです。 大統領府、政府、立法府、司法府、検察、警察等々。
セウォル号が304人の市民を乗せたまま徐々に沈没してゆく姿を見守った市民たちは、今でも自責の念から抜け出せずにいます。 十分に救助できる時間があったのに、テレビを見ながら何もしなかったという罪悪感に苦しんでいるのです。もちろん市民にはそんな罪の意識を持つ理由はありません。放送は一時、全員が救助されたという報道を流しました。 もちろんまもなく修正はされましたが、市民が正確に状況を把握する方法はありませんでした。仮に把握できたとしても、渦巻く孟骨(メンゴル)水道に飛び込むこともできません。 そんな責任はまったくありません。しかし、事故現場で海洋警察の引き止めにも関わらず、救助に乗り出した漁民まで自らを叱責しています。遺族の世話をしたキム警長は自ら命を絶ちました。 市民は「その時なぜ私は何もしなかったのか?」と自らの不作為に対する自責の念にかられているのです。
しかし、当然救助しなければならない責任がありながらなんの行為もしなかった者は、正反対の態度を示しています。 乗客を放置して脱出した船長からしてが、この疑惑を回避するため必死でした。 市民の常識、市民の法感情と道徳感情からすれば容認できないことでした。 さらに汚いのは彼らに殺人罪を適用しさえすれば、それで自分は免罪符を得られるとする“権力の不作為”です。
検察がこの罪を適用した理由は、船が沈没するという事実を知っていたうえ、そのまま放置すれば乗客たちが死ぬことになる事実を認知していながら、放送装備・電話・非常ベル・無線機などで乗客を退船させることができたのに、そのような措置を取らなかったということです。 特に「じっとしていなさい」という放送だけを繰り返したことは死に追いやる故意性が充分あったということです。
しかし裁判所は‘船長は退船放送をするよう指示したし、船長は乗客が海洋警察によって救助されると予想した’という被告の主張を受け入れました。「検察が提出した証拠だけでは乗客が死に至ることがありうるという認識を越えて、それを容認する意志が被告人にあったとは見難い」ということでした。 裁判所もその疑いを十分に考慮したが、検察が提出した証拠だけでは認定できないということでした。
もちろん検察が殺人罪を適用するといった時、法理的正当性を巡って論議が起きはしました。 いくら人間の皮をかぶった悪魔だとしても、数百人の乗客が死んでいくのを放っておくことができただろうか? 少なからぬ市民は殺人罪の適用に首を傾げました。 しかし大統領はこの事件を“殺人事件”と規定しました。 大統領がガイドラインを示したので、検察としては従わざるをえなかったのでしょう。 国民的怒りが現政権を襲うことを遮断して、政権がセウォル号事故の責任論から抜け出すために、極刑という過度な法適用に頼ったのではないかと疑ったりもしたのはそのような理由からです。
とにかく検察は思案の末に刑法のホコリに埋もれた片隅から不作為殺人罪を引き出してきました。素晴らしい解決策でした。しかし、この罪が権力者に対して持つ致命性を検察は見逃しました。 不作為殺人罪は責任ある者、すなわち権力者に適用されるからです。 船内では船長、会社では社長、そして国では政府機関長、司法府、立法府、検察、警察、そして最終的には大統領がそれら責任ある者です。 セウォル号事故と関連して当然しなければならない仕事をしなかった人々は誰でしょうか。 検察は政権には悪魔、国民には天使とも言える条項を蘇らせたのです。
何の責任もない市民が「私のせいです」と嘆いていた時、救助・救護の責任を負った者は何をしたでしょうか。 船員はさておき、国民の生命に対して無限の責任を負っている者は何と弁解したでしょうか。 その象徴的な発言が、船内では「じっとしていなさい」であり、この国では「大統領府はコントロールタワーではない」というものでした。
大統領が自ら告げたように、最終責任は大統領にあります。 結果的な責任のみならず、災難状況では事件を掌握し適切な措置を取り、人命を救う義務があります。 ところが大統領と大統領府がしたことは何だったでしょうか。 大統領は事件発生後の8時間どこにいたのか、安保室長、秘書室長などさえ分かりませんでした。 後になって汎政府対策機構に現れ「生徒たちはライフジャケットを着ているというのに、そんなに発見や救助が難しいのか」と寝言のような話をしました。大統領は何も知らずにいました。 そして事故から1時間半後、セウォル号が船尾だけを残して沈んだ状況で、初めて「救助に最善を尽くせ」と指示し、海洋警察特攻隊が出動してから1時間が過ぎた時点で特攻隊の出動を指示しました。 事故の瞬間から汎政府対策機構に姿を現わす時まで、最も重要なその時間は大統領と大統領府にとっては「総体的不作為」の時間でした。
秘書室は最初の報告から計19回も報告したと弁解しました。 嘘でなければ大統領は少なくともセウォル号の状況については知っていなければなりませんでした。まともな報告を受けていながら何らの措置も取らなかったとすれば、認知機能に深刻な障害があり職務遂行が困難であるのでなければ、わざと放置したことになるでしょう。
検察は船員に対して不作為殺人罪を適用した理由について「退船準備など可能な救助措置義務を果さず、多くの乗客が死亡する結果を持たらしたため」と明らかにしました。 この論告は、この政府にもそのまま適用できます。「‘救助できる時間も充分あったし、手段も充分にあったにもかかわらず、大統領とこの政府は何らの措置も取らず、乗客が死亡する結果を持たらした!」。爪ほどの良心でもあるならば、304人の国民を死に追いやった自身の不作為に対して、自ら道徳的・政治的責任を負わなければなりませんでした。 それでこそ故意性に対する疑いも減じることが出来るでしょう。 しかし「コントロール タワーではなかった」「救助指示をした」「海洋警察が全員救助したと思った」などの弁解をならべ立てるばかりでした。 それは、船長が不作為殺人罪を避けるために法廷でならべた「脱出指示をした」「海洋警察が救助すると思った」と言った弁解と変わりありません。
不作為殺人罪が出てきたついでに言えば、この政府の下でそのような非難を受ける事件が随所で起きました。 三母娘事件や、逃げられずに焼け死んだ障害者、障害児家族の相次ぐ自殺、密陽(ミリャン)ハラボジ(おじいさん)の死、双龍(サンヨン)車労働者の死、慶州(キョンジュ)マウナリゾート釜山外大生事故、泰安(テアン)海兵隊キャンプ事故、アパート警備員の自殺、サムスン電子白血病…。 いずれも責任ある者の不作為の中で、国民が死んだ事件です。セウォル号事故はそのような事件の延長上で起きた惨い事態でした。 権力不作為のランドマークのような事件でした。 これまで政権の意志により逆走行の先頭に立ってきた大法院(最高裁)は、整理解雇の要件を大幅に緩和し容認して、職場から追われた人々を死に追い詰める結果を招いています。
数日前、汝矣島(ヨイド)の多くの高層ビルから「お前たちが殺した」というビラ数万枚が撒かれました。 責任ある者の不作為に対して、絶望に追いやられたこの国の青年たちの告発です。 これに先立ってイ・ハ(イ・ビョンハ)作家は、この政府を手配するビラをばらまきました。 なぜそのようなことをしたのでしょうか? 国民を死に追いやるこの政権の不作為を、誰が誰に告発でき、また処罰できますか。 天に訴え、国民が目覚めることを期待して、ついに高層ビルに上ったのではないでしょうか。