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[朝鮮族大移住100年] 流浪①離散の海 太平洋を越えて‘ネイルショップの悲しみ’

原文入力:20111117 21:29(4941字)
アン・スチャン記者


←去る7月、米国、ニューヨークのネイルショップで朝鮮族ジェニファー(仮名)氏がお客さんの足の爪の手入れをしている。中国、吉林省出身の彼は10年にわたり米国に不法滞留して金を稼いでいる。


1990年代末から2000年代中盤に至るまで朝鮮族7万人余りが‘アメリカンドリーム’を抱いて米国に渡った。その多数は不法入国をした。亡命申請後に身分を得るケースもあるが、不法滞留者として生きていく人も多い。彼らは韓国人が集まって暮らすニューヨーク・ロサンゼルスのネイルショップ、指圧店、食堂などで働いている。彼らの家族は中国東北や沿海・内陸の大都市、そして韓国と日本に散って暮らしている。彼らは地球的次元の離散集団だ。

米国連邦政府国土安保部所属国境守備隊は拳銃または小銃で武装した。緑または黒の防弾チョッキを着て米国・メキシコ国境一帯を虱潰しに捜索する。密入国者は彼らの銃弾に留意しなければならない。メキシコ議会報告書によれば、1994~2007年の間に少なくとも4500人のメキシコ人が密入国途中に死亡した。どれほど多くの朝鮮族が異郷万里の砂漠で亡くなったのかを明らかにする統計はまだない。


韓国旅券を持って米国に到着した後、キム・ヨンヒ(仮名・50)氏は自身の幸運を痛感した。殺伐とした米国境守備隊にぶつからなかったのは多くの幸運の中の一つに過ぎなかった。ある朝鮮族は1年を越えて世界各地を歩き回った。偽造パスポートを摘発しない‘粗末な国家’を何度も経てアフリカ大陸のガーナまで行ってきた。国境地帯の砂漠を歩いて落伍した朝鮮族もいる。 近所を通り過ぎた別の朝鮮族密入国一行がいて命拾いした。ある朝鮮族の女性は国境守備隊を避けてサボテンの隙間に隠れて全身に棘が刺さった。アメリカインディアンが釣り針として使った巨大な棘だ。「棘の刺さった跡を私に見せてくれたけど…ふぅ。」キム氏は直接体験したことのように鳥肌を立て涙を拭った。


ブローカーに数千万ウォンを払って得た偽造パスポートで多くの辛酸と苦難の末に米国に入り込み大部分はネイルショップで仕事をしている。


難しい‘メキシコ ルート’に朝鮮族が登場したのは1990年代末だ。その道に沿って米国に密入国する朝鮮族の数は2000年代中盤に頂点に至った。それは韓国政府の不法滞留者取り締まり時期と符合する。 1992年韓-中修交以後‘産業研修生’資格で国内に入ってくる朝鮮族が急増した。2年の期限を越して長期滞留する朝鮮族も増えた。90年代末から政府は不法滞留者取り締まりの強度を高めた。数百万ウォンのブローカー費用を払って韓国行ビザを得た朝鮮族にとって強制追放は個人の破産はおろか家族の絶滅を意味した。朝鮮族は代案を探した。


その代案はすべての朝鮮族に当てはまるものではなかった。米国行のためにブローカーに渡す費用は一時4万ドル(約4400万ウォン)まで沸騰した。中国東北地域で農業に従事していた朝鮮族にとって、それは想像外のお金だった。中国から直接米国行を選ぶ場合、その費用は大部分が借金で充当された。 不法滞在取り締まりを避けようとする韓国の朝鮮族は何年も粘り強く働き貯めたお金を米国行にかけた。韓国行が投資ならば米国行は賭博だった。


心を鬼にして2003年に米国に渡ってきたキム氏も韓国で金を稼いだ。キム氏は中国、吉林省延辺で生まれた。夫が病気で寝つくと金を稼ぎに韓国に渡った。1998年から5年間、食堂で働いた。故郷に置いてきた息子はその間に中学生になった。 子供の面倒を見る期間はまだ星のようにたくさん残っていたが、夫は相変らず稼ぎがなかった。キム氏は韓国で稼いだ金に中国で借りたお金を合わせて米国行を斡旋するブローカーに会った。


去る7年余りの間、キム氏は米国、ニューヨークの韓国人または、朝鮮族の食堂で働いた。月3000ドル(約330万ウォン)を稼ぐ。 韓国の食堂で仕事をした90年代末には月90万ウォンを受け取った。一緒に働いた朝鮮族の友人たちと時々連絡するが「この頃は月160万ウォンまで受け取れる」という話を聞いた。それでも米国とは比べものにならない。所得の3分の2は中国の家族に送っている。 韓国・米国生活を加えて12年以上も離れて過ごした家族だ。腹の中を真っ黒に焦がして生き別れに耐えて育てた息子はもう20代半ばだ。別に過不足なく育ったのでキム氏の賭博は成功したわけだ。


その可能性を見て7万人余りの朝鮮族が米国に留まっている。‘米国の加里峰洞(カリボンドン)’はニューヨーク フラッシングだ。 朝鮮族5万人余りが米国東部のニューヨーク・ニュージャージーなどに密集している。 その中でもコリアタウン・チャイナタウンが共存するフラッシングに朝鮮族は居を定めた。彼らは主にネイルショップで仕事をしている。朝鮮族の男性も爪を整える仕事を拒まない。

亡命申請をしようとすればお金がとても多くかかり7万人余りの中の大部分が不法滞在を辞さずに子供たちの面倒を見る。


米国の朝鮮族は米国の韓国人経済圏に従属している。ネイルショップは在米韓国人が切り開いた業種だ。ニューヨーク韓国人ネイル協会によれば、ニューヨーク州だけで3500店余りのネイルショップがある。従事者は3万人余りだ。ここで仕事をしようとする韓国人青年は珍しい。ニューヨーク一帯に居住する5万人余りの朝鮮族は韓国人ネイルショップの社長が最も好む労働者だ。話が通じるだけでなく繊細な手先まで備えている。朝になればフラッシングの路地ごとにネイルショップたちが運営する小さなシャトルバスが通う。朝鮮族労働者はバスに乗ってニューヨーク、マンハッタンまで出て行き仕事をする。


ジェニファー(仮名・54)の右手は10年間マニキュア ブラシを掴んでいる。米国、ニューヨークのネイル店には彼を訪ねてくるお客さんが多い。米国人、韓国人、中国人を迎えて英語、韓国語、中国語を使う。英語は下手だが大きな支障はない。「何色にしましょうか? マッサージはお望みですか?」疑問文がいくつか言えれば充分だ。彼の米国での名前は韓国人社長が付けた。韓国と中国で通じる漢字名のもあるが、今はジェニファーはジェニファーと呼ばれるのが一番気が楽だ。


←フラッシング通りには朝鮮族が営む食堂も生まれている。 通り沿いのある朝鮮族食堂が台所補助を求めているというお知らせが貼ってある。


中国、吉林省延辺出身のジェニファーは2001年に米国にきた。去る10年間、米国で不法滞在をしながら二人の娘を育てた。長女はカナダへ留学し中国人と結婚した。二番目は日本留学を終えて中国北京のある大学に入った。「私がここで底辺生活をしたから可能なことでした。今はこれ以上苦労したくないが…。」お客さんの爪から目を離さないままジェニファーが話した。


米国朝鮮族7万人余りの相当数は不法滞在中だ。米国永住権または市民権を得る方法があることはある。「中国で政治的・宗教的圧迫を受け避難してきた」として亡命を申請する朝鮮族がいる。 裁判を行わなければならないが、その費用として1万ドル(約1100万ウォン)を渡すのが常だ。裁判結果は楽観できない。 密入国以後に一定時間が経った後に亡命申請をしたとすれば、楽観的予測はより一層難しい。亡命理由の真実性を裁判所が認めないためだ。


太平洋を挟んで米・中・韓に離散した両親・子供・兄弟は懐かしさで生を満たす。“故郷に大きな家を作って一緒に暮らすのが夢でしょう。”


ここで朝鮮族は選択の岐路に立つ。密入国直後亡命申請をするならもう一度大金が必要だ。ところが直ちに返さなければならない‘ブローカー費用’がある。3万5000~4万ドルのブローカー費用を返すのに1~2年はかかる。送金を待つ中国の家族を無視して法廷にすべての収入を捧げることはできない。亡命を許されても中国にいる家族がまた別の政治的圧迫に処するかと思うと恐ろしい。大多数の朝鮮族は結局不法滞在を選ぶ。


ソウル、加里峰洞(カリボンドン)のようにニューヨーク フラッシングにも‘成功した朝鮮族’が少しずつ生まれている。金を貯めた朝鮮族が直接店を運営するのだ。フラッシングだけでも朝鮮族食堂が10個所余りある。韓国人商圏が崩れている隙間に食い込んだ彼らだ。


在米韓国人はニューヨークでやっと商圏を形成したが、彼らの子供は高い学歴を土台に専門職に進出している。 韓国人商圏の‘世代伝承’が断絶したのだ。 米国朝鮮族には機会であり危機だ。 労働者から社長へ身分上昇を試みる機会だが、韓国人-朝鮮族をつなぐ商圏全体の流動性はより大きかった。


朝鮮族食堂を営むキム・イル(49)氏は「韓国人の店が減りながらコリアタウンが辺境に押い出され、代わりにチャイナタウンがますます大きくなっている」と話した。朝鮮族食堂のお客さんさえ3分の1が中国人だ。韓国語・中国語を同時に駆使する朝鮮族としては急増する中国人が嫌いではない。 ただし閉鎖的な中国人商圏が朝鮮族商人らと共存できるかかはさらに今後を見なければならない。 緩衝役割をした韓国人はさらに裕福な町内に度々抜け出ている。


米国朝鮮族が現地で‘民族再生産’に成功するかも不透明だ。彼らは大部分が子供たちと離れて暮らしている。 両親世代は千辛万苦に耐えて金を稼いだ。両親の経済的後援を土台に中国東北で生まれた子供は中国大都市に進出した。若い彼らは「底辺から始めるのは嫌いだ」として米国行を敬遠する。最近になって密入国取り締まりが激しくなり、米国景気が沈滞して「以前にはおよばない」という評判が朝鮮族の間に広がった状態だ。アメリカに住む両親と中国に住む子供の距離は太平洋ほどの幅に広がって固着されている。朝鮮族の家族は中国・韓国・米国などに散開し懐かしさで生を満たす。


ニューヨークで宿泊業をするキム・チョンイン(仮名・41)氏は最近韓国で‘家族の集い’を開いた。中国、吉林省、延吉(ヨンギル)に住む母親、韓国に嫁入りした姉に会った。 血縁は何年ぶりかに顔を突き合わせたが多くの対話はできなかった。 どこから話を始めるべきか分からなかった。 いつまた会えるかキム氏は自信がない。 米国で会った朝鮮族は「お金をもっと稼いで故郷に大きな家を作ってちりぢりに散った家族が再び集まって一緒に暮らす」夢をたびたび語った。


文・写真ニューヨーク/ソン・ギョンファ記者 freehwa@hani.co.kr

※ 第2回‘エリートの誕生’では日本で育つ朝鮮族青年エリートたちを紹介します。


■ 4代にわたるイ・ギョンチョル(仮名・56)氏家族の離散

イ氏は中国遼寧省瀋陽で生まれ育った。やはり瀋陽で暮らしたイ氏の祖父には二人の弟(妹)がいた。彼らは韓国と中国で別々に暮らした。日帝強制占領期間に韓半島と中国大陸を行き来して生活した曽祖父によって祖父兄弟の離散が始まった。 解放・分断を経て兄弟は再び会うことはできなかった。激変の歴史から始まった‘意図しない’離散だった。イ氏の父親は一生を瀋陽で送って亡くなった。中国東北地域に朝鮮族が集団居住した時期にイ氏の父親は中国の地を離れようとは思わなかった。しかし50代に入り込んだイ氏の三兄弟は中国の大都市と農村、そして米国に散らばっている。より良い暮らしのために‘積極的・自発的’に家族の離散に耐えている。 イ氏の子供とおい(めい)は最初から中国を離れた。30代の彼らは米国ニューヨーク、日本東京、韓国ソウルなどで各々生きている。中国でも韓国でもないところで新しいアイデンティティを形成する朝鮮族の若者たちが生じたのだ。


原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/506029.html 訳J.S