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[特派員コラム]‘枝川朝鮮学校’からお知らせします

原文入力:2011-01-06午後09:09:16(1670字)

チョン・ナムグ記者

←チョン・ナムグ東京特派員

ソウルの江東区(カンドング)と同じ漢字を書く日本、東京の江東区の豊洲駅近隣に小さな小学校が一つある。この一帯はかなり以前はゴミ埋立地だった。帝国主義日本は韓半島から連行してきた人々をこちらに強制収容した。慶尚道と済州道出身が多かった。解放になっても帰国できない人々は、結局この荒地に根をおろした。彼らは日帝に奪われたウリマル(訳注:我が言語)と文字を子供たちに教えようと学校を作った。力を集めて運動場を固め、建物を作った。東京朝鮮第2小学校、または枝川朝鮮学校と呼ぶ学校だ。

1946年1月、50人の生徒が入学して以来、今までにこの学校から1400人近くが卒業した。ウリマルで名前の3文字をやっと話していた彼らがウリマルと文字を学び、歴史と伝統文化を学んだ。卒業式になれば生徒も、先生も、父母も、村の隣人も全部が泣いた。別れの痛みに泣き、差別の佗びしさに泣き、逆境を勝ち抜いた感動にも泣いた。学校は彼らにとって故郷のような存在だった。南側の祖国は彼らを知らぬフリをした。その上、北側が学校に物質的・精神的に多くの支援をした。この学校の教務室には今でも故金日成主席と金正日北韓国防委員長の写真が懸かっている。

年の瀬の先月29日、学校へ行った。フェンスの金網は所々が裂け、46年の歴史を持ったみすぼらしい2階建て校舎の中には雨漏りした跡が随所に見えた。天井は所々剥がれていた。建物内に井筒和幸監督の映画<パッチギ>の主題歌だった‘臨津江’が流れていた。この日は26日に始まった‘焼肉(プルコギ)アーティスト アクション’行事の最終日だった。芸術家たちが集まり写真と美術作品を展示し、歌と行為劇を行い、映画も上映した。‘枝川朝鮮学校校舎の消滅と再生を記憶するためのもの’だった。そうだ。この古い建物は来週から撤去される。この学校を卒業した人々が思い出の建物が消える前に目に焼き付けておこうと多数訪れてきた。誰かが「旧校舎、本当にありがとう。あなたは私たちの胸の中に永遠に生きています」と書いて廊下の壁に貼ってあった。

枝川朝鮮学校がついに新しい建物を用意したという便りを伝える私はとてもうれしい。彼らはこの間、どれほど険しい道を歩いてここまできたのか? 石原慎太郎東京都知事が無償で使っている土地を明け渡せと2003年に学校を相手に訴訟をかけてきたことは最も大きな試練だった。負ければ学校は消えただろう。多くの日本人たちが訴訟を支援し、民団と総連も一つになって力を合わせた。‘小さな統一’だった。3年余りで和解勧告判決が下され、市価の10分の1価格で場所を買えることになった。その時の一致協力が校舎を新しく建てるための募金につながった。新しい校舎を作るには総額4億円(約52億ウォン)がかかった。その内、8000万円が韓国で募金され伝達された。2007年<SBS>が放送した‘東京第2学校の春’というスペシャル番組が特に大きな力になった。来週始業すれば子供たちは新しい建物で勉強を始める。

しかし苦難はまだ全て終わったわけではない。今回6学年12人が卒業したが、来年の入学生は4~5人にとどまるようだ。日本政府が朝鮮学校を‘北韓学校’と追い立て圧迫を強化していることが最も大きな原因だ。生徒の半分が‘韓国’国籍だが、韓国政府は関心がない。東京都は朝鮮学校に対する補助金支給を中断することにした。当初から金額が少ないため格別な打撃ではないが、区庁が父母に直接支給する補助金まで打ち切るならばこれは相当な打撃になる。もちろん今まであらゆる逆境を掻き分けてきた彼らがここで倒れることはないだろう。 チョン・ナムグ東京特派員 jeje@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/457583.html 訳J.S