原文入力:2010-11-18午前09:10:01(1923字)
‘民青学連’ク・チュンソ氏の長い悪夢
ソン・ジュンヒョン記者
←全国民主青年学生総連盟事件 拷問被害者 ク・チュンソ氏が去る15日夕方、ソウル、弘恩洞の精神障害者居住施設‘一つの心の家’で過去への思いに沈んでいる。 イ・ジョングン記者 root2@hani.co.kr
詩人を夢見た19才の文学青年
拷問・監視の後遺症に苦しめられ
"寃罪は晴らしたが精神的な打撃から抜け出られず
始めからやりなおしたい"
‘民青学連 無罪 感謝礼拝、2010年11月18日鍾路キリスト教会館2階.’
今月初め、ク・チュンソ(56)氏に感謝礼拝の招請状が舞い込んだ。うれしい便りだった。先月28日、全国民主青年学生総連盟(民青学連)事件にかかわったこれら遺族・家族など151人が国家を相手に出した損害賠償請求訴訟で勝ったことを記念する礼拝だった。1974年、独裁に対抗した180人余りの大学生たちを 「北韓の指図を受けた政府転覆勢力」として処罰したことについて、ついに国家賠償がなされたのだ。
彼は感謝礼拝に参加し一歩遅れて名誉回復をした人々と喜びを分かち合うつもりだ。だが、自身は民青学連事件の時に負った精神的打撃から一歩も抜け出られずにいる。ク氏は現在、ソウル、弘恩洞の精神障害者居住施設‘一つの心の家’で暮らしている。去る7日に会ったク氏は再び思い出したくない記憶を苦痛の中から引き出した。
朴正熙政権が維新憲法を公布した72年、当時17才だったク・チュンソは詩人を夢見ていたという。キム・ジハの<五賊>とキム・スヨン、シン・ドンヨプの詩をアンダーラインをひきながら読んだ。習作で書いた詩も多くある。
74年に大学に入り一ヶ月後に民青学連事件にかかわらなかったならば、もしかしたら彼は詩人として生きたかもしれない。
"中央情報部南山分室の階段を降りて行くのに‘アッ~アアッ~’という悲鳴が聞こえました。" ク氏は南山分室で裸にされたまま一週間、壁だけを眺めてその悲鳴を聞かなければならなかった。 "未だにその声が耳元をぐるぐる回っています。" その幻聴は一生 彼に付いて回り、‘地面がへこむ’錯視のために歩き方は相変らずリズムを失いふらつく。その時から人生もさまよい始めた。
74年4月、非常普通軍法会議検察部が書いた拘束令状には "(ク・シュンソは) 3月7日夕方7時頃、内資洞のパン屋で(京畿高先輩でありソウル大生の)イ・チョルから‘これから対政府闘争をするので市内の高等学校生たちを動員してデモに参加しろ’という指示を受けた" とある。彼は "当時イ・チョル前議員に会ったことはその通りだが、‘学生たちを動員してデモを行うようにした’という内容は誇張されていた" と話した。
十ヶ月の獄中生活の末に彼は75年2月に出所したが、彼を待っていたのは‘心の監獄’だった。警察の監視と尾行は生活が難しいほどに執拗だった。 "その時から犬が人に見えて、人が犬に見えたりもしました。" 結局、ク氏は出獄したその年にまた現在の光州広域市にある大型精神病院に‘閉じ込められた。’その後35年間、精神病院と精神障害者居住施設を周期的に行き来した。両親は亡くなり、唯一の家族である兄は暮らしが苦しくク氏を世話できなかった。
ク氏は現在のグループホーム形式の精神障害者居住施設‘一つの心の家’で眠り、午前10時になればリハビリ治療病院に行き午後4時に帰ってくる生活を繰り返している。‘一つの心の家’チェ・ドンピョ院長は 「ク氏のような精神障害者は薬品治療とともにリハビリ訓練を通じ社会復帰を準備しなければならない」と語った。ク氏を治療している愛の村精神科医院チェ・ムンジョン院長は「ク氏が拷問・暴力の後遺症でストレスを多く受けた」として「過ぎるほどに人を配慮し、純真極まる人なので一層受けた傷が大きかったようだ」と話した。
ク氏は30余年間服用した抗精神分裂症薬の影響で、過去の記憶の多くを失った。 「私がその時まで詩を150編余り書いたようだが、みな失って、今はよく覚えていません。だけど、いつか雑誌社を作り文も書きたくて、きちんとしたこともない大学生活ももう一度したいし…。" 彼の心はまだ詩人を夢見た十七才のように見えた。
ソン・ジュンヒョン先任記者 dust@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/449228.html 訳J.S