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眠りにつけない‘虐殺怨霊’60年ぶりに抱きしめる

原文入力:2010-10-12午前08:53:33(1699字)
ソウル收復後 賦役汚名‘牙山犠牲者慰霊祭’
当時、米軍・警察、確証なしに民間人5300人余り銃殺
真実和解委、公式謝罪・慰霊事業を勧告…政府はそっぽ

キム・ミンギョン記者

←11日午後、忠南、牙山市、牙山市民文化福祉センターで‘60周忌韓国戦争前後民間人被虐殺者牙山地域合同慰霊祭’が開かれ、参加した遺族たちが献花している。この日の慰霊祭は牙山地域民間人虐殺被害者たちのために60年ぶりに初めて開かれた。

韓国戦争当時6才だったムン・ジョンチョル(66)氏は忠南、牙山市、塩峙邑、山陽里518番地に暮らしていた。祖父母に父、母、そしてムン氏など8人兄弟姉妹と甥(姪)まで大家族が一緒に暮らしていた。だが、戦争が終わった後、生き残った人はムン氏とムン氏の祖父母の3人だけだった。米軍と警察が1950年9月29日、この地域を收復した後‘反逆者’を処罰する中でムン氏一家の悲劇が始まった。ムン氏の2人の兄が人民軍の手伝いをしたという理由で棒で殴られ亡くなり、数日後の10月初めには1才の甥(姪)と5才の妹まで7人の家族が銃殺された。2人の兄もこの時期に行方不明になった。

虐殺されたのはムン氏の家族だけではない。‘真実・和解のための過去史整理委員会’調査結果によれば、忠南、牙山でほぼ同じ時期に警察と大韓青年団など治安隊に虐殺された人々は800人余りに及ぶと推測された。これらの内、身元が確認された人々だけで77人だ。

11日午後、牙山市、温泉洞の牙山市民文化福祉センターではこれらの人々を賛える慰霊祭が開かれた。半世紀がはるかに過ぎ、ちょうど60年ぶりに開かれた慰霊祭だった。遺骸埋葬推定地である牙山市、湯井面では案内表示板の除幕式も開かれた。

慰霊祭ではムン氏の家族たちが一人ずつ名前を読み上げられた。「ムン・ヒョンギ(父),キム・サムネ(母),ムン・ホイン(長兄),イム・ソマン(兄嫁),ミン・ミンシク(次兄),ムン・ユンス(1才の甥(姪))….」還暦を迎え幼い時の家族たちの慰霊祭を行うことになったムン氏の目がしらが赤かった。

この日行われた牙山慰霊祭は1950年9・28ソウル収復後、人民軍占領時に賦役した人々とその家族を対象に無差別虐殺がなされた事件中の一つだ。当時、駐韓米国大使は、1950年12月31日まで16万2763人が反逆者として拘禁されていると明らかにした経緯がある。その時は反逆者処罰基準が曖昧であり、右翼団体らは報復目的で参加し、虐殺は老若男女 無差別になされた。翌年の1・4後退の時も‘人民軍に協力しかねない’という理由などで虐殺が続いた。イ・イムハ成均館大 東アジア歴史研究所研究教授は「当時は人民軍治下で生き残ったこと自体が反逆者と見なされる程に賦役の範囲が広範囲だった」とし「賦役行為は恣意的で曖昧で不特定に判断された」と語った。

真実和解委の調査によれば、9・28収復後の民間人虐殺事件は194件で、少なくとも2301人が犠牲になったことが確認された。真実和解委はこういう調査結果を根拠に国家の公式謝罪と慰霊事業支援、平和人権教育の強化などを勧告した。だが、政府は先月28日‘9・28ソウル収復および国軍の日行事’をソウル、光化門広場で開くなど、韓国戦争60年記念事業には積極的だが、真実和解委の勧告履行には消極的だ。

60年ぶりに開かれた慰霊祭を巡り、キム・ジャンホ牙山遺族会会長は「一家族が全て虐殺され、生き残った遺族も殆どない場合もあり、昔のように被害を受けるかと思い恐ろしくて出てきたがらない人々もいる」と話した。ムン氏も「政府が冷遇せず、無念な思いで亡くなった方々の恨をはらすために積極的にでて欲しい」と語った。

牙山/文・写真 キム・ミンギョン記者 salmat@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/443261.html 訳J.S