原文入力:2010-09-20午後02:51:30(2715字)
[ペイビトゥリ] ソ・チョンソクの幸せな育児
過消費・物神主義 煽る大型マートは危険な遊び場
←ある大型マート全景. ハンギョレ資料写真
初めて大型マートができた時期、大型マートはそれ自体で一つの行楽の場所になった。すっきりした照明の下、果てしなく積まれている魅力的な物たちは現実に飛び出してきた一つのファンタジーであった。‘1+1行事’のように母親たちの視線を惹きつける価格競争力、コーナーごとに退屈なパパたちを慰める試食コーナー、実際に触って選ぶことのできるおもちゃコーナーは大型マートをテーマパークに次ぐ家族旅行場所へ昇格させた。
窓もなくて時計もなく、時間感覚を失わせる所で子供たちはカートに乗りながら期待に宗を膨らませた。いざ出る時は、私の手になんであれおもちゃボックスが握られるのだ。子供たちはカート場の桟を手でこすりながら「パパ早く早く」と叫びまくった。
大型マートの人気はもう以前ほどではないが、それでも週末に行けば家族そろって来た姿を見ることは珍しくない。大型マートという所が家から離れていて運転をしなければならず、運転までして行って買う以上はたくさん買うほかはなく、荷物を持つパパが必要で、両親が一緒に行かなければならないから幼い子供たちだけを家に置いておくことはできない相談だからと家族全員出動は当然の帰結だ。
しかし、大型マートは物を買いに行く所であって絶対に行楽の場所ではない。 たとえ、そちらにフードコートがあり、日用洋食を食べることができ、病院と美容室、はなはだしくは子供たちの保育所まであって、ワンストップで多様なことを処理できたとしても、それでも子供たちと週末を楽しく過ごす場所にはなれない。いやできるなら子供たちと行ってはならない所が大型マートだ。大型マートの使用説明書があるならば、そこには‘できるだけ子供は連れてこないようにして下さい。’という警告文句を入れるよう薦めたい。
大型マートは子供たちに物に対する現実的感覚を失わせる。一つの物が作られるまでには数多くの人の労働が必要だ。また物を買うためにも両親の大変な労働が必要だ。しかし、子供の前に途方もなく積まれていて別に値打ちがあるように見えもせず、すっとしてカードをこすれば家に持って買えることができる物からは子供は労働の痕跡を見つけられない。いつでも持って使って、また捨てて新しいものに変えることができる消費の対象に過ぎない。こういう状況で物を大切にすることを期待するならば、ただの孔子様のお言葉に過ぎない。
それだけではない。大型マートで両親はやむを得ず過消費と衝動買いをする姿を子供たちに見せる。大型マートは眼を引くことのできる効果的な陳列技法だけでも平均30%の売り上げ増大を実現しているという。その話を消費者の立場で見直せば、陳列の技法のために私たちは必ずしも買わなくても良い物を30%余計に買っているわけだ。安く買いたくてカートに物を投げ入れるが、分かってみれば買わなくても我慢できた物が少なくなく、一度にたくさん買っておいたからと惜しまず無駄に使ってしまうケースも多い。山積みいっぱいに物をカートに積み上げ、満足気に笑う両親の姿を見て子供はおとなが持つ力を過消費、大量消費と同一視する。‘私も早くおとなになって、このようにいっぱい買える人になるのだ。’
大型マートの問題点中、両親に最もよくあることはおもちゃ購入を巡って行う子供との闘争だ。子供としては、とうてい両親を理解することはできない。診療室で頻繁に聞く子供たちの表現を借りてみよう。「ママはずるいです。自分の必要なものはみんな買いながら私のものは一つだけ、それも特別な用事のないものを買って恩着せがましくします。」これらの物はママのものではなく家族が一緒に使うものというママの説得は通じない。子供たちは必要なものにしか関心がない。ほしいもの、私の手で握って私を楽しくさせるものだけが私のものだ。他のものはたたママが必要で買うものだ。
大型マートの物洪水の中で、子供たちは判断の準拠を失う。結構良いおもちゃを買っても飽き足りない。それより良いおもちゃを目で見たためだ。ママはせいぜい私に中くらいに良い物を買ってくれるので、多分、中くらいに愛するの。ちょうどその時、他の子供の両親がもっと良いものを買うのを見ようものなら、子供の確信はより一層固まる。うちの母さんは私を拾ってきたのだろうか? 母親たちはこのように訴える。この子に買ったものも良いものなのに、満足することを知らない。しかし私たちが知っているように満足は相対的だ。私たちの会社が他の会社より給与が高くても、隣の職員が給与が上がるのに自分の給与はそのままならば大部分の人々は幸福を感じることができない。おとなもできないのに、子供に安分知足の境地を期待することはできない。
そのような状況で感情調節が出来ない子供を持った両親ならば大型マート行楽が侮れない。大型マートに行けば必ず見る場面の中の一つが子供を叱りつける両親の姿だ。床をふき掃除するようにごろごろする子供も見かけ、時には子供の背中をひっぱたく暴力現場も観察される。子供に高い物を買わされたとママに小言を聞くパパの姿もたまに見ることになり、二度とお前を連れてくれば私はママではないというような脅迫もよく聞かれる。これら全ては大型マートにこなければ起きなかったことだ。
自らに一度尋ねよう。なぜ大型マートを訪ねるのか? 必ず行かねばならない理由があるのか? ひょっとして町内のスーパーマーケットでも小さい店で少しずつ買って使ってはいけないだろうか? ガソリン代を除いて衝動買いを除いても大型マートが本当に経済的に利益になるのだろうか? 少し不便でも子供と市場に出かけて物を選び、その中で仕事をする大人たちの姿を見せるようにすることはいけないことだろうか?
明らかにやむを得ず大型マートを利用しなければならない家族もいる。夫婦そろって職場が終わる時間がとても遅ければ、町内の近所のスーパーや市場を利用することは容易でない。だとしても大型マートは適切な行楽場所ではない。もし物を買わなければならないならば、物だけ買い、すばやく帰ってこよう。明らかことは、それが子供たちにとって教育的に適切な場所ではないという点だ。
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/women/440590.html 訳J.S