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‘抗日の道’痕跡は消えていたが胸がはずんだ

原文入力:2010-08-05午後07:17:51(2791字)
光復軍 創設70周年…中国 独立運動 遺跡地 踏査 現場

ソン・ジュンヒョン記者

←独立精神踏査団員らが去る7月9日、レインコートを着て1937年に韓国人青年たちが訓練を受けた中国,九江市 中央陸軍軍官学校 星子分校跡に登っている。こちらで訓練を受けた韓国人青年たちは朝鮮義勇隊と光復軍の骨格となった。

今年で6回目の‘独立精神踏査団’(団長 イ・マンヨル)は光復軍創設70周年を迎え‘光復軍の足跡に沿って’という主題で7月8日から6泊7日間、中国の光復軍と朝鮮義勇隊遺跡を現地調査した。

臨時政府記念事業会(会長 キム・ジャドン)主催で開かれた今回の踏査は大韓民国臨時政府の武装独立軍だった光復軍の母胎となった朝鮮義勇隊の創立地 武漢と光復軍の第3支隊成立地 阜陽、光復軍の特別訓練場所だったリンチュアン、光復軍第2支隊の本部と訓練場所があった西安などの抗日闘争遺跡を見て回った。(下地図の絵)今回の踏査には厳格な審査を経て選ばれた大学生54人と独立活動家の子孫、臨時政府記念事業会会員など計72人が参加した。

イ・ジフン(高麗大経営学科)踏査団員は 「光復軍遺跡を見て回りながらマンネリズム、うつ病を克服することになった」として「私の人生の転換点になったようだ」と意味を付与した。パク・ダヘ(西江大史学科)団員も「今回の踏査を通じて勉強をもっとしなければという気がした」と話した。

朝鮮義勇隊・光復軍創立地
家具店・ナイトクラブが入り
大学生など踏査団70人余り
独立軍歌を歌い6泊7日
"小さな標示石でも立てられれば"

植民地の青年たちはなぜ朝鮮を離れ異域萬里の中国で抗日闘争の道を歩んだのだろうか。70~90年余りの歳月が流れた後‘独立精神踏査団’の青年たちが彼らの足跡を探しに出た。

多くの大学生たちが就職に役立つという‘スペック積み’に没頭しているが、踏査団は今日 私たちの存在まで 「彼らの闘争がなかったとすれば私たちの踏査団もない」(チェ・スンヨン・梨花女子大史学科)という省察を話題にして先人たちの血と汗が流された中国の大地を踏んだ。

■植民地の長いトンネルをすぎるように夜汽車は走り…
7月8日踏査初日。湖北省武漢は後日に光復軍に一部が編入される抗日軍事組織朝鮮義勇隊の創立地だ。1938年に創立を宣言した旧キリスト青年会の建物跡には家具店が入っている。跡形もなく消えた抗日遺跡の前で踏査団の胸も、おりしも降りしきる雨とともにぬれた。

9日、二日目。江西省九江。1937年、朝鮮青年 百人余りが訓練を受けた中央陸軍軍官学校星子分校跡地へ向かった。「父親は1933年に中国に亡命しました。」汗だくになりながら星子分校跡に登る山道で、イ・ドンチョル臨時政府記念事業会監査が話し始めた。当時この分校でイ監査の父親イ・ウォンデが訓練を受けた。「父親は中国名 マ・トクサンとして知られた人物で、義烈団出身アン・ビョンチョルの勧誘で亡命しました。1937年キム・ウォンボン隊長の許諾を得てこちらに入学しました。」ここで訓練を受けた韓国人は翌年創立した朝鮮義勇隊の柱となった。
その日の夜、植民地圧制の長いトンネルをすぎるように汽車は5時間かけて闇を突き抜け阜陽へ向かった。独立活動家の子孫であるヤン・インソン団員はニム・ウェールズの<アリラン>を手から離せなかった。その本は中国で活動した朝鮮人革命家キム・サンの一代記だ。「風餐露宿して戦ったその方々の思いを一気に全部読むのが惜しくてゆっくり読みました。」

←中国抗日運動踏査経路

■抗日武装闘争史も今は左・右の翼に
3日目の10日。安徽省阜陽の光復軍第3支隊成立地はナイトクラブに変わっていた。踏査に同行した元老言論人 イム・ジェギョン団員は「こういうところは我が国の政府が買ってでも記念すべきだ…」として残念がった。13日、西安の光復軍第2支隊本部跡を見て回った時は、高尺高校の教師 チュ・セヨン団員が「民間次元で小さな標示石でも立てられたら良いだろう」という即席提案を出しもした。

踏査 5日目の12日。国民党政府中央陸軍軍官学校 洛陽分校跡を訪ねた。1934年、韓国独立軍総司令官イ・チョンチョン将軍を責任者として開校した洛陽分校には韓国人92人が入学した。続いて訪ねた洛陽八路軍判事処(事務所)は、1938年以来 朝鮮義勇隊第2支隊が主要活動拠点とした所だ。

朝鮮義勇隊の一部は中国共産党所属の朝鮮義勇軍へ合流する。朝鮮義勇隊から光復軍と左派系列の朝鮮義勇軍が共に誕生したのだ。<韓国独立運動の歴史> 60冊を今年初めに完刊したイ・マンヨル踏査団長(独立運動史編纂委員長)は、この全集を紹介しながら「抗日武装闘争を見る視野をさらに広げた」と話した。この全集は既存の光復軍と朝鮮義勇隊、朝鮮義勇軍を扱うに止まらず、キム・イルソンの東北抗日連軍など左派武装闘争まで幅広く扱ったという評価だ。

■“遊びながら勉強しよう” 溌刺とした踏査
臨時政府記念事業会キム・ジャドン会長は発隊式で「独立運動遺跡がたくさんあるが、落陽・西安など名勝地も多いので‘遊びながら勉強する機会’になることを願う」と大学生たちを励ました。実際に学生団員たちが行く道には“きゃあきゃあ!”と息が切れるほどの笑い声が絶えなかった。

“臨時政府の基礎になった団体は?”“はい。新韓青年会!”移動するバスの中では即席クイズ大会が開かれた。正解者には商品券が与えられる。しかし、くれるくれないは司会者の気持ち次第だ。‘目障りなら君が司会すれば’というやり方。計8組まである学生踏査団は組別に主題発表時間も持った。

踏査団員たちは移動する間中、独立軍歌を歌った。独立軍歌4番まで歌う試合も行われた。“新大韓国独立軍の百万勇士、祖国の呼びかけ知っているか…独立門に自由の鐘が鳴る時まで戦いにでかけよう。”完全に全てを歌ったイ・ソジョン(釜山大考古学科)団員に副団長のキム・グァンジェ博士が人民元100中国元を賞金として渡した。

窮屈な踏査日程だったが、抗日闘争遺跡ばかりを訪ね歩いたわけではない。宋の国の首都 開封で‘判官 包青天’で有名な開封舞を見て、先日 世界文化遺産に登載された河南省 登封の少林寺にも立ち寄った。特に西安で秦始皇の兵馬俑を見物した団員たちは“一生忘れられない思い出”に挙げた。

西安/文・写真 ソン・ジュンヒョン先任記者 dust@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/433708.html 訳J.S