原文入力:2010-07-28午後08:44:51(1390字)
父親の遺志を継いでようやく開いたが
20年間 慢性赤字で暫定閉館
悲惨だった事情を保存したいが
←イ・ヨンシク(50)丹波マンガン記念館長
再開館準備‘丹波マンガン記念館’イ・ヨンシク館長
去る26日、久しぶりにソウルにやってきたイ・ヨンシク(50・写真)丹波マンガン記念館長は疲れた表情だった。父親が設立した日本、京都市右京区の丹波マンガン記念館を引き継いで守ってきた彼は開館以来20年、慢性赤字に勝つことができず昨年5月から暫定閉館した状態だ。
"父親の遺志が宿ったところであるだけに、どうにかして記念館を生かしたいのです。当初こちらを作った理由が日本人たちに朝鮮人強制徴用の歴史を知らせるということなのに、まだその目的を達成できてないではないですか。"
記念館に対するイ館長の執念を理解するには、日本社会に孤立無援で残されたある在日朝鮮人家族が耐えなければならなかったつらい労働と差別の歴史を知らなければならない。慶南、金海で生まれた彼の祖先イ・ジョンホ(1932~95)は2才の時の1934年に家族について日本に移住した。十代半ばから雑用を転々とした彼は結局、京都周辺のマンガン鉱山に定着することになる。
マンガンは鉄鋼の強度を高めるために使われる大変重要な軍需品だった。そのため日本政府はマンガン採掘を促したが、鉱山労働は非常に苛酷だった。多くの朝鮮人が狭い坑道で中腰の姿勢で200㎏にもなるマンガン鉱石袋を背負って運ぶつらい労働に耐えられず亡くなった。生き残った人々は後遺症の塵肺症を病み辛い老年を送らなければならなかった。イ館長は「父親はそんなみじめだった朝鮮人の事情を必ず後世に知らせると決心した」と話した。
記念館を作ると言ってはみたが過程は容易ではなかった。十分な資金がなかったために家族が直接ダイナマイトで発破をしながら、汗を絞りながら坑道を広げていった。記念館は89年5月に開館した。以後、京都府、京北町などに融資と運営補助金などを要請したが回答はなかった。イ館長は 「こういう記念館は公共のために公的に運営するのが正しいが、日本政府と地方自治体は最後までそのような負担を背負おうとしなかった」と話した。結局、2009年5月 イ館長は嵩む赤字に耐えられず閉館を決心するに至る。
しかし閉館を残念に思う韓国と日本の市民たちが去る6月27日、記念館再建委員会を作り再開館を推進することにした。彼は今回の訪問でその初めての事業として歌手ユン・トヒョン氏に会い、11月27日京都で後援コンサートを開くことに合意した。 博物館を維持するには年間運営費として少なくとも1800万円(2億3000万ウォン余り)が必要だ。
"助けてくれる方々がいなければ記念館は閉めるほかはありません…。それでも亡くなった父親の前に恥じることはありません。最善を尽くしましたから。" 関西地方の抑揚が混じったのんびりした物言いだった。
文・写真 キル・ユンヒョン記者 charisma@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/432546.html 訳J.S